すべての男は非モテである

     ―― 男性学的なるもの ――

1、すべての男は非モテである――あいまいな男の私

結論をいおう、すべての男は非モテである。
すべての男は生まれながらにして欠如を抱えている。不確かであいまいで不透明で、そして透明な存在。それが男だ。「男という病」だ。そして、それこそが非モテなのだ。
非モテにまつわる語りの量の男女間の非対称性。それは、非モテがそもそも男性性に起因するのだと考えなければやはり理解できない。男女の性の非対称性に基づく、身体と精神の問題。それが先鋭化したものが、非モテなのだ。もちろん、女の非モテという問題もある。
だが、あえていおう、問題は「男は存在しない」という点である、と。
男自身として語られるペニスは、陽根や力の源泉や権力の象徴などと、プラスの意味合いで語られている。が、その実体は、なんら所有を意味しないものなのではないか。むしろ、それは欠如の象徴とでもいうべきものなのではないか。
また、男女の明確な違いとして生殖面に焦点をあてれば、生物としての人間の機能の核心を担っているのは間違いなく女の側である。生理と妊娠、そして出産という痛みを伴う体感こそが、「生物としての人間」という実感を女に対して担保する。その一方、男は自らの生殖における役割=効果を、生物的知覚でもって確認することができない。
男とは、人間から疎外された存在ではないのか。
その不安が、行動となって現れる。男に特徴的な行動としての「物に対する執着」とは、すなわち確固たる身体の獲得への衝動である。
ある種異様なまでの、フェティシズム――外的、物理的存在への執着、獲得への志向。それらは、すべてが等しく男という性の原理にもとづいた身体の獲得への衝動なのである。
だが、そこにすらもたどりつけない者がいる。自らをモノとして、モノをまとうことによって立つことのできない者がいる。モノに向けられるまなざしを、理解できない者がいる。あるいは、まなざしを向けられず、不可視領域と蔑まれる者がいる。
「自らに向けられるまなざしの不在」は、必然として、まなざしの先に存在していたはずの「他者の存在」をも男の意識から消すことになる。
その結果、クィアでもなく、トランスジェンダーでもなく、もちろん女でもなく、それでいてヘテロセクシャルな志向を有しながら、しかしてヘテロセクシャルな枠組からはこぼれ落ち、不可視領域における透明な存在として不透明なセクシャリティを抱え込む者が誕生する。
それが、非モテである。
それが、「男という病」である。
すべての男は非モテである。――これは、私にとっての真実である。




2、女たちの知らない男

① 男は存在しない

「男は存在しない」。そのことを示すために、まずはあるフェミニズム的な俗説を例にとろう。
その俗説の一つに、言語の問題を指摘するものがある。
英語で男と女をそれぞれ表す単語、maleとfemaleを指して、「maleが共通しているということは、言語的に男性が人間の基準的位置を占めていることの現れである」というものがある。そのこころは、「男性の女性に対する抑圧的な関係は、社会構造だけでなく言語から始まっている」というものである。だが、はたしてそれは正しいのだろうか?
femaleは、ラテン語で女を意味するfeminaに由来する。feminaとは、「生み出すもの」という意味をもち、「fe-」は「生む、なす」の意味を持つ冠詞である。この指小辞形femella=「女の子」が転じたものが、femaleである。
一方、maleは、ラテン語で男を意味するmasに由来する。その形容詞形masculus=「男らしい」が、フランス語を経て英語に入り、maleになったとされている。
即ち、femaleとmaleの間に語源的なつながりはなんら存在しないのである。「言語的に男性が人間の基準的位置を占めている」という俗説は完全な誤りである。 *1
maleとfemaleに語源的なつながりがないとしても、言説分析的な観点からその言葉が受容・消費されている状況を考えると、maleとfemaleに男性優位主義的な関係性を読み取ることも間違いではない、といわれるかもしれない。
しかし、言語の意味に対する批判というものは、およそ語源という地点へと収束するものであり、さらに、言説分析的な観点に立ったとしても、maleとはfe=「生む、なす」という生殖能力の欠落したfemeleであるとした方が、適切なのではないだろうか? *2
むしろ、言説分析的に問題があるとすれば男の方である。
男らしさの代名詞として掲げられるものに、筋肉(という言説)がある。これは、あきらかに両性に共通して存在するものを男が一方的に背負わされている。
そして、この筋肉=muscleは、ラテン語のmusに由来する。これはネズミを意味し、筋肉の動きがネズミに似ているとされたところから転じている。これはある意味、男は「男らしさ」として動物的な=非人間的なイコンを背負わされるという抑圧を受けているのではないだろうか。女が「生む、なす」ものとして、人間の生殖的な側面から規定されているのに対して、ある意味、男はネズミにも等しい動物的存在として規定されている。
「言語における男性支配」を説くフェミニズム的な俗説とは逆に、「男性はそもそも人間として規定されていない存在」だといえるのではないだろうか。
「女は存在しない」?馬鹿をいうな。
「男こそ存在しない」のだ。


② セックスと嘘とステロタイプ

筋肉を無理やりに固有のものとしてまとわされる男。だが、それには理由がある。
それが、男がペニスとして抱える不安である。男にとってペニスとは、不安そのものなのである。
男性学の本のほとんどが、男の問題としてセックス(性行為)を大きく取り上げている。
中には、セックスを聖なるものとし、「完璧な体験」をめざすことこそが、男の精神の解放につながるというものまである。男とセックスをあまりに単純に結びつけたそれは、セックスしなければ男ではないというに等しい言説である。が、ひとまずそれは置く。
問題は、「男は存在しない」という点、ペニスが生み出す不安がいかなるものかという点である。
それは、鏡像たる「存在するものとしての女」を見たときに明らかになる。
男の非存在性があらわになるのは、子供の出生の時である。
セックスの有無が問題なのではない。たとえ、何度行為を経たとしても、相手の女から生まれる子供が自分の子供であることを証明するためには、男は、好むと好まざるとにかかわらず、二つの両極的思考によらねばならない。即ち、信仰と科学――盲目的な非論理的判断に基づく「我が子」の受け入れか、ここ十数年程度のスパンで生み出されたDNA鑑定か、のどちらか――である。*3
そして、第二次性徴期における心身の変化にも男女の非対称性が存在する。
女の場合、ある程度一律に丸みを帯びた体型へと変化する。それに対し男は、声が低音に変わる点こそ共通するものの、誰もが筋骨隆々の四角い体型になるわけではない。そしてそれは、普通に生活する上ではなんら際立った変化とならない。そして、第二次性徴期の核たる生殖能力の獲得については、女の初潮がハレの祝祭として赤飯で祝われるのに対して、男の精通は決して祝われない。赤飯こそ恥ずかしいものを暴き立てる因習だという主張もある。が、問題は、心身の変化がハレとして位置づけられるという点にこそある。
女のそれに対して、男のそれは悲惨の一言だ。
もちろん、声変わりなど外見的な「見える」部分もある。しかし、ある日突然、自らの身体が性欲=暴力そのものだと規定され、容易に「語りえない」もの、「語ってはいけないもの」として抑圧され、結果的にポルノやAVから歪んだイメージを「自己責任」で体得しなければならないという悲劇は、女のハレとは比べ物にならない。
また、この時に抱く自らの心身への違和感が、半ば女性だけのものと特権化されている様も、差別的である。フェミニズムはさかんに「見られる不安」を強調するが、男の「存在を否定される不安」たるやその比ではない。誰にも相談できないまま、否定的に投影され続ける「自己像」を抱え続ける男の心身の違和感を看過したままでフェミニズムが議論されているとしたら、それは恐ろしいまでのナイーブさだといわざるを得ない。
さらに、この問題を複雑にする要因がもう一つある。勃起である。男の場合、精通があろうとなかろうと、ペニスは勃起するのである。この外見的に見える体の変化が、性徴とまったく関わりのない現象として起きる点は、女性とは明らかに大きく異なる。そして、精通そのものは「見えない」問題として抑圧されるのである。
男はペニスという不安、即ち「男という不安」をぶら下げているのである。女が毎月、自らの身体性に気付かされるというなら、男は毎日、自分自身が自分自身の身体から疎外されているという事実を、眼下に突きつけられているのである。
このペニスという不安装置に対しては、「男は女に受け入れられることをアイデンティティの核にしている」というような俗説が「答え」として流布している。だが、それはまったくあたらない。仮に、その命題が真だとして、同性愛においても性行為が存在することをどのように説明するのか。その俗説には、相手に女を選ぶ男が多数派だという以上の意味はない。
悪の根源として投影される男の性的欲望。だがそれは、支配欲のためでもなく、権力欲のためでもなく、また自尊心の満足のためでもない。
はっきりいおう、男性の性的欲望とは、性器の体内への収納願望なのだ。自らの不安を消却せんとする願望なのだ。それは、自らの身体をもってして不可能な行為の代償なのだ。
この「性器の体内への収納願望としての性欲」、「ペニスという不安の消却回路としての性欲」を鮮明に示しているのが、グレッグ・イーガンの短編「祈りの海」に描かれたセックス描写である*4。そこでは、セックスと同時にペニスが切り離され、相手のものとなっている。
男の性的欲望とは、精液の排出にあるのではなく、ペニスそのものを排出したいのである。
そう、すべての男は非モテである。そして、すべての男はミサンドリー(男性嫌悪)であるともいえよう。
男とは「ない」という体をもって生きる不安である。女にあって男にないもの。それが、自らの身体の内の生きる理である。生きる理をその身の内にもたない存在。それが男である。生きる理が生み出す女という現実感は具体性へとつながり、一方、男という不安感は思考や哲学性といった抽象性を模索するハメになる。
「絶対」の地平に立つ少女、「実存」の虚空に浮かぶ少年。古来、哲学・思想・宗教の発達が主に男主導で行われてきたのは、自らの生物としての不確かさに、なんとか具体性をもたせよう、折り合いをつけようとした格闘の結果ではなかったか。あるいは、引き篭もりやニートとは、この男という不安に発した身体と精神のコンフリクトの場としてあるのではないだろうか。
そして、非モテとは、この「男という病」が先鋭化したものではないのか。
繰り返していおう、「男は存在しない」。
男には、自らの生物としての存在を証明する手段が、先天的に欠如しているのである。男とはいわば欠陥生物なのだ。生まれながらにして欠けているのは、陰陽の陰の性質をもつのは、実は男の方なのだ。そして、だからこそ、ペニスをもつ男には、身体に対する不安感が強迫的に付きまとうのである。*5
女は女として存在する。しかし、男は男として存在できない。
そう、男とは、つまりどこまでも「らしさ」に依存するしかない生き物なのだ。
「らしさ」という蜘蛛の糸にすがるしかないのが男なのだ。


③ スカートの下は劇場

男を支える「らしさ」という蜘蛛の糸。だが、それはもはや風にゆられちぎれ飛んでいるに等しい。現代は男にとって、「らしさ」を引き剥がす時代、身体を引き剥がす時代として作用しているのである。
元来、男は、その「らしさ」の多くを社会環境によっていた。男の「らしさ」は、長らく社会の変化に応じて、少しずつ時代に適した形に姿を変えながら存在してきた。だが、それがゆっくりとしたものであった故に、それは「自然なもの」と受け取られ、特に意識されることはなかった。
だが、近代以降、社会環境はこれまでにないスピードで変化し、そして「速さ」こそが最高の価値とされるようになった。その中で、男を支える「らしさ」は社会環境の激変に取り残されてしまい、必然として、男は時代に適した「自然」な「らしさ」を見つけられないまま、時代をさまようこととなった。
そう、今は、「らしさ」が失われた時代なのである。男を支える「らしさ」が失われ、「ペニスという不安」「男という病」だけがあらわになった時代なのである。
例えば、近世までの社会では、労働はほぼ例外なく身体=筋肉と結びついていた。農民や漁師や猟師にしても、職人にしても商人にしても、そこにはモノを扱う物理的な労働があった。それら第一次産業的なものは、日常の生活の中で自らの身体を活用することによって成り立っていた。筋肉という「らしさ」も、そうした中であたりまえのものとして、特に意識されることなく獲得されていた。
だが、近代以降、産業革命によって生み出された機械工業、そして続く資本主義経済が、男から「らしさ」を、身体を引き剥がし始めた。
敗戦後の日本では、第一次産業の肉体労働の延長線上にある第二次産業の「労働」が「らしさ」の位置に推奨されていった。だが、その第二次産業による資本の蓄積も、およそ30年で物理的に国全体に行き渡り、次いで、単純な製造から、付加価値を生み出す必要が生まれてきた。ここで「らしさ」を担う「労働」の質は、サービス業=第三次産業へと変化することとなった。
そこに問題があった。一見した、「労働」という枠を変えずに、その実体を肉体労働から精神労働へと大きく質を転換するという、大規模な論理のすり替えが行われたのである。
これまでの労働とは打って変わって、「らしさ」としての「労働」には物腰の柔らかさ、精神的な細やかさが要求され始めた。大枠の「仕事」においては、引き続き肉体性を第一とする一方で、その内実の「サービス」においては精神性を追求することが徹底されるというねじれが生じたことに、男はあまりに無自覚なままであった。
そして、資本主義の論理によって第二次産業の生産拠点は海外へ移転し、国内では第三次産業が主となり、精神的労働はますます過剰なまでに求められるようになっていった。それは精神売買、精神的売春を肉体によってまかなうといった域にまで達し、およそ、男を担う「らしさ」としてはあまりに混迷したものとなった。*6
もはや、「労働」は男を支えるに足る「らしさ」ではなくなったのである。
この産業構造の変化における「らしさ」の混迷は、別な側面においてももたらされた。事業者側に現れた変化であった「労働」に対して、消費者側に現れた変化。それが、個人化である。
そもそも第二次産業の発達は、都市化と共にあった。それはまず、各地方に根付いていた家族共同体を個々に切り離して都市へと誘導した。そして、都市に根付いた人々は、家族の最小単位としての核家族を形成した。そして、都市に集まった核家族に対して一律に同じモノを売る第二次産業が行き渡ると、事業者は販売の戦略を変化させ、今度は家族単位ではなく、個人を単位とした商品を売るようになった。第三次産業もそれに連動し、個人に対してより抽象的、精神的な差異を強調するようになっていった。
即ち、産業構造の変化は差異化、細分化を経て、最小消費単位である個人単位にまで社会を切り分けたのである。そこでは、個々人に対してそれぞれ異なった「らしさ」が提供され、もはや共通項としての何らかの「らしさ」が得られるということはありえなくなった。
だが、男が混迷に陥ったのに対し、女はその変化に過剰なまでに適応した。それは、「女らしさ」が変わらず提供され続けたからでもあるが、生まれもった肉体の違いによるものともいえる。そう、「見える」肉体をもった者の利点である。
フェミニズムにとって、「らしさ」は最も憎むべき敵とされてきた。そして、女が「見られること」はとみに否定的に捉えられてきた。*7
だがむしろ、女性はそのように「見られている」ことを意識する、即ち「まなざし」の存在に気付くことによって、その「まなざし」の先にある他者の存在を早くから受け入れることができているのだという、隠れた恩恵を受けているともいえるのではないだろうか。
まなざしの不在を抱えることで、精神分析医学という詐術にも等しいビジネスに自らを収奪されることを考えれば、女性が持つ「まなざし」への意識は、デメリットよりもメリットの方が大きいともいえるのではないか。
事実、男性の中には、自らが「見られる存在」であることに気付かない、気付けないものが多数いる。特にその傾向が強いのが、非モテである。そしてそれが、ただでさえ不安定な男性の精神を、さらに不安定なものに形作る要因ともなっているのだ。
私は大学三回生頃にようやく「脱オタ」らしきものを行い、試行錯誤を繰り返した挙句、悟った。
女のかわいらしさ(女らしさ)の8割は、後天的なものでできているが、男のかっこよさの(男らしさ)8割以上は、先天的なものであるのだ、と。即ち、逆三角体型のイケメン八頭身ではない自分には、およそ何を着ても似合わない、ということである。
これは、男に対して「らしさ」を付加する服飾――象徴的記号が欠如していることが要因として考えられる。かつては、男の服装と女の服装には確固たる区別が存在し、それを身に着けることがまさに「らしさ」として機能していた。だが、その文化コードは時代と共に消えていき、特に70年代以降は女性のパンツルックなど、ファッションのユニセックス化=中性化が進み、服飾から「男らしさ」はほぼ脱臭された。*8
その結果、男の外観から「見え」る「らしさ」は、ほぼ姿を消し、後には、レイザーラモンHGのような過剰なカリカチュアだけが残ったのである。
かつて上野千鶴子は、女性を装飾する「らしさ」の過剰を「スカートの下の劇場」と評した。これに比していうなら、男のそれは「ズボンの中の路地裏」である。「らしさ」を表す点において、男の服飾は女に比して、あまりに貧弱という他ない。そして、中性化された男の服飾の本質とは、誰も見ない、誰に見せるものでもないもの、なのである。
ならば、こういうべきだろう。――「スカートの下は劇場」、と。




3、透明な存在の不透明なセクシャリティ

①“I”はさだめ、さだめは死

「らしさ」の喪失を経て、あやふやな魂が露出した男。
「らしさ」が担保されたまま「解放」というオルタナティブを与えられた女に対して、男は何のオルタナティブも示されないまま「らしさ」だけが粛々と剥奪されたのである。世に非モテが顕在化した――「男が弱くなった」というのは、その必然の結果に過ぎない。
だが、すべての男が非モテであるとはいえ、現実にはそうと思えない男の方が多数派である。
その非モテではない男は、己以外の何かに頼っている。そしてまた、そこに新たな問題が発生する。失われた「らしさ」をめぐる不毛な神学論争が――。
等しく非モテであるはずの男をモテと非モテとに分かつもの。それが、一般に精神論や根性論と呼ばれる「らしさ」の喪失が生んだ新たな「信仰」――身体感信仰である。その本質は、「らしさ」の喪失という脱神話化作用によって、メタレベルに退却を余儀なくされた筋肉である。
そこでは、感情もまたコミュニケーション様式の一種であるという前提を欠いたまま、感情だけが身体と結びついているものと特権視される。感情を人間の本質とすることで、身体感が得る効果は、思考や議論を力で押し切るという強引さである。そこでのコミュニケーションの価値は、抽象的な思考の質ではなく物理的な声の量でもって決定される。
この身体感信仰もまた、男という不安を消却するための手段の一つではある。しかし、それは同時に、信仰を共にしない者に対する脅迫的な差別の温床ともなっている。これが、モテと非モテのコンフリクトの構図である。
身体感信仰で問題なのは、そこで説かれるものが、実は自ら獲得した筋肉ではない、という点である。それは、メタレベルに退却させられたことで逆に霊性を獲得した「偉大なる筋肉」、グレートマッスル信仰とでもいうべきものである。
あらゆるものに等しく備わり、またあらゆるものが等しく獲得でき、「健全な肉体に健全な精神が宿る」という大いなる信仰。このナイーブな普遍拡大志向こそが身体感信仰の問題点なのである。
「鍛えろ!スポーツしろ!セックスしろ!」という身体感信仰の脅迫的折伏はある意味、正しい。なぜなら、それらは「らしさ」であり、男が男として生きる術である。――ただし、過去においては。
それらはもはや死んだパラダイムであり、少なくとも、メタレベルの限りなく透明に近いジェスチャーでしかない。即ち、問題はその相対性への意識の有無、その信仰の暴力性の自覚の有無にこそある。
ジェンダーという世界最大の暴力は *9、「人間」という世界最大のカテゴリにも通じているのだ。
「同じ人間じゃねえか」(太宰治『斜陽』)という世俗的な価値観のもつ暴力性は、非モテなら誰しもがその身に覚えのあるところだろう。あらゆる差異を否定すると同時に、自己中心的な基準を押し付けて恥じないその姿勢は、その根源に暴力を有することによってのみ成り立っている。
だが、「同じ人間」など、「人間」など、所詮、観測者の立ち位置によってどうにでも姿を変える、確率でしか語れない存在でしかない。あらゆる偏差の存在を無視して普遍的に語られる信仰が、あまねく届くわけがないのである。
また、この暴力性はそのあり方にも問題がある。信仰をもつ人間の「強さ」は、自らに瑕疵があることを認めないことで成り立っている。間違いを認めた瞬間、自らの「内なる強さ」が消えてなくなるという錯覚が、その信仰を強固にしている。「らしさ」のメタレベル性に気づかないまましがみつくという行為は、価値観の相対性にまさに背を向けている。
だが、それが錯覚である理由は、そのしがみつく「らしさ」=「強さ」の源とは常に「外部にある」という事実である。その気づきが、この信仰が空虚な精神論に陥るか否かの分水嶺となるのである。
だが、この信仰をモテ側の問題だとするなら、同じく非モテ側の問題として、信仰をもたないことを問題視せねばならない。
非モテの問題とは、つまり、身体感の無さである。
その身体感の無さとは、モノに対する姿勢に端的に現れている。
モテ(あるいは普通の人)にとって、モノというのは、人から情緒を通じて買うもの、または、人との情緒的情報交換=価値交換に利用するものとして受け止められている。しかし、非モテの場合は、モノはモノとして買うもの、それ以上でもそれ以外でもないというのが基本スタンスである。モノそのもの以外の感情や情緒や価値は、余計なもの、いらないものとして「処理」されている。
また、モノの所有感についても、モテの場合、所有は満たされること意味し、それを欲求するという、物質的・感覚的な反応を示す。が、非モテの場合には、所有とは満たされないことを意識させるものとして機能するという、情報的・抽象的・思弁的な反応を示すのである。
仮に、「文化」をモノと不可分のものだとするなら、非モテは恐ろしく非文化的な存在であるといえよう。
この感覚が、何に由来するのか。仮に、精神的要因と物質的要因の二つの側面が考えられる。
精神的要因とは、感情に起因するもので、そこにはモノ的なるもの、即ち身体感信仰による被支配、被操作への恐怖感から、モノに対する参与から撤退するというものである。一方、物質的要因とは、消費による市場の支配、操作体験、交換という原則への原初的信頼感の欠如というものである。
非モテの思考・行動様式はこの心理的・物理的という両方の環境要因から導かれているのである。
それを一言でいえば、まさに「不信感」といったものとなる。「信じられない」ことが非モテの本質なのである。そして、他のあらゆる行為に内面で不信を抱き、拒否感を抱き、その結果として、非モテは男として現実感をもたない上に、身体感をも喪失するのである。
勘違いしてはならないのは、これが選択として行われているということである。身体感信者は非モテに「逃げ」であるなどと罵倒を浴びせかけるが、それはまったくの見当はずれな、信仰に身を置く者のみ都合のいい物言いでしかない。非モテの態度は、身体感信者が「偉大なる筋肉」を信仰するのと、選択という意味ではまったく同じなのである。
だが、その身体感の無さは、非モテ対して二重の孤独を与えるものとなっている。あるいは、二重に非モテであることを余儀なくしている。森岡正博は『感じない男』で、「普通の男」に対して男であることの否定感の受容を説いた。だが、私は「普通の男」ではない。非モテは「普通の男」ではありえない。「自分は男ですらない」。その自覚からすべてが始まっている。即ち、非モテは男であることの否定感をまさに実体として生きているのである。
この「モテの信仰」対「非モテの不信」をいい換えれば、「身体的全能感が導く精神的去勢の欠如」対「精神的全能感が導く身体的去勢の過剰」となるだろうか。身体感信仰に生きるモテとは、いわば「思考からの退却によって、身体=外面の拡大を成し遂げた者」なのであり、そして、非モテとは、「身体性からの退却によって、思考=内面の拡大を成し遂げた者」なのである。
男がもてあます“I”というさだめ。もてあますよう作られた身体の違和感と共存することをさだめられた男の“I”。
そのさだめを外部に強烈に仮託するという手段をとったのがモテであり、そのさだめに正面からぶつかったものが非モテなのである。どちらもが等しく正しい、はずである。しかし、現実レベルにおいて、狂信は理性を凌駕する――それも時としてではなく、ほぼ常に。
信仰と不信。この二つの極端な二律背反の原理こそが、非モテを苦しめているのである。


② 動物化するポスト喪男

その二極構造はまた、非モテ側の内部にも存在する。それが、鯛男と喪男である。
もてない男」の両極として語られる、鯛男と喪男。この両者の中間項に非モテを加えれば、「もてない男」の三類型として整理できる。即ち、モテ同様の信仰型の「らしさ」を選択した者が鯛男であり、対して、退却型の「らしさ」を選択した者が喪男なのである。
そして、ここに一つの答えが存在する。鯛男はモテ同様に男である。そして、非モテは男ではない、しかし、喪男は男である、という答えが。
非モテが信仰型と退却型の狭間でゆれるのに対して、喪男は、逆説的に自らを男として立たせることに成功している。即ち、非モテが陥る二重の孤独を、撤退の徹底によって解決した者こそが、喪男なのである。
では、喪男の男らしさとはいかなるものか。
喪男の男らしさのロジックとは、フェミニズムによるラカン批判のロジックに近しい。それは、ラカンが「人間の精神」を説く時に、その象徴に「ファルス」や「父の名」という言葉を使い、その「去勢」(喪失)を説くことで、逆説的に人間精神における男優位を確立させた、というものである。 *10
つまり、喪男とは、「ペニスが存在しない」という強烈な意識をもち、また、「喪」を名乗ることによって自らのペニスを象徴的に自らの体内に収納し、まさにそのことによって、失われた象徴として「らしさ」を、身体を、男を、逆説的に獲得した者なのである。それが、ミソジニーによって立つあやういものだとしても、喪男は陰画としての男というホモソーシャルを形成することに成功している。間違いなく、彼らは男なのだ。
ただ一つ皮肉な点は、喪男ナショナリズムを志向する場合、そのネイションという想像の共同体、即ちその想像の身体が、通常、女性として象徴されるという点であろうか。
この喪男の絶望――存在が世間から否定されるのは、それが世間が抱く「本当の愛」という至上理念=市場理念を、まっ向から否定するものだからではないだろうか。男であることに苦悩し、恋愛に絶望する喪男は、「別の楽しみ」にふけることはおろか絶望することすら否定されるという、三重苦、四重苦を強いられているのである。
「自己責任」において現実を受け入れろという一方で、「恋愛」という世間の理想(≒ネイションという想像の共同体)を維持するために、飽くなき欲求を抱け、あきらめることは許さない、というこの論理のなんという欺瞞、なんという傲慢。
――だが、非モテは「男という病」そのものである。非モテはまだ、自身の「らしさ」を獲得できていない。そして非モテには、鯛「男」となるにも喪「男」へと転じるにも躊躇がある。なぜか。
理由は、喪男が獲得した恋愛に代わる「別の楽しみ」にある。そこには、その行動には、実は少なからずモテへの契機が含まれているのである。
男は、自らの非存在性が故に、内なる存在理由がないが故に、外部のあらゆるモノに自らの存在を仮託する。それはまた逆に、「男」が、「男性的なるもの」が、世界のあらゆる所に存在する、存在することができるということでもある。
暴力もスポーツも筋トレも然り、恋人もセックスもアイドルも然り、車も電車もカメラも然り、フィギュアもドールもプラモも然り、アニメもマンガもゲームも然り、パソコンもネットもブログも然り。男にとって、この世界に存在するもの、自らの身体の外部に存在するあらゆるものが、――モノが、物質が、男の身体なのである。
女にとって消費が「らしさ」確定後の階級闘争として機能するのに対し、男にとって消費は「らしさ」獲得のための生存闘争として機能している。女が余技として快楽として「消費」するのに対して、男は存在するために、まさにその存在をかけて「消費」するのである。
だが、それは――それこそが、モテのもつ信仰なのである。
喪男が「別の楽しみ」によって立つ時、それはモテや鯛男と同様の、モノへの自明な欲求を前提としているのである。そして、だからこそ、非モテは躊躇を覚えるのだ。
まさに、非モテとは行くも地獄、戻るも地獄、そして立ち止まるも地獄なのである。




4、まだ人間じゃない

① 男への扉――掟の門

行くことも戻ることも立ち止まることもできない非モテ
病と不安と苦悩を一身に背負う非モテは、また、排他的なホモソーシャルによって脅かされてもいる。
復古という名の自慰にふける連中が、その第一である。もはや戻るべくもない社会状況を直視せず、ただいたずらに過去を美化するその姿勢は、社会全体を再洗脳したいという願望であふれている。ただ人を脅すだけで、何ら解決策を提示しない無恥と愚かさは、非モテにとっても誰にとっても害毒以外の何物でもない。
しかし、排他的なホモソーシャルは、実は非モテの内部にも存在している。
それが、非モテたちのカリスマ願望である。
このカリスマ願望には、受難型・救世主型・英雄型という関連する三つの類型が含まれている。即ち、「我らと同じ受難を抱え、我らを救う救世主として、我らの敵と戦う英雄となれ」というものである。喪男を例に取れば、本田透は『電波男』によって、奇しくもカリスマとなった。だが、同時に本田は、それによって永遠にカリスマであることを、即ち永遠に喪男であることを強制されたのである。
「当事者性」をもち続ける者――受難を徹底し聖域にまで高めたもの――だけを、カリスマたる存在として認めようというその願望。この「当事者」という名の受難者がカリスマを祭り上げる裏には、暗い欲望が秘められている。
そう、受難者であり、救世主であり、英雄であるというカリスマ的立場とは、結局、カリスマが「死ぬ」ことでしか達成されえないのである。一見、美しく称えられるカリスマには、体よく犠牲者としての立場が押し付けられているのである。そして、カリスマがその道を外れることは決して許されない。カリスマは「死すべき者」として、「死せる運命」を体現する者として、メシアやヒーローと祭り上げられる中で――「殺される」のである。
これはまさに、生贄に等しい。カリスマは祭り上げられているのではなく、十字架にかけられているのである。カリスマ願望とはつまり犠牲による神の擬制であり、「死してカリスマ謗る者無し」という都合のいい「暗黙の死の強制」がその教義なのである。
「カリスマ」が「死にたくない」という自律的な欲求を抱くことは、決して許されない。「カリスマ」には、苦しみとともに生きる道の選択、あるいは血反吐を吐きながらの模索という受難が強制される。「当事者」たちにとって「救済されたカリスマ」には何の価値もないからである。
この傾向は、喪男の側で特に強い。受難の刻印――同質性の固持を押し付け、足を引っ張り合う姿がそこにある。故に、非モテ喪男となることに躊躇を覚えるのである。
男へと続く扉は、まさに掟の門に備え付けられているのだ。あるいは、男への扉とはそもそも地獄の門なのか。
しかし、非モテを追い詰めるホモソーシャルは男だけに限らない。
前後に開かれた掟の門の入り口で、私は前門の虎に喰われるか、後門の狼の群れに喰われるかを必死で考えている。


② クローゼットの猛虎

非モテを追い詰め殺す、もう一つのホモソーシャル。それは他でもない、フェミニズムである。
平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。」(『青鞜』1911年)という言葉。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」(『第二の性』1959年)という言葉。これらは、フェミニズム零次元におけるアジテーションであったのである。もはや、これらの言葉に対しては、歴史に接する以上の態度は必要ないのではないか。これをフェミニズムの精神と称えることにもはや意義はないのではないか。
そういうとフェミニストは怒りを覚えるかもしれない。しかし、「らしさ」の死んだ時代に生まれた私には、自分の抱える「男としてのあいまいさ」の方が、やはり目に付いてしまうのだ。
今や、弱者としての女という認識は社会的に普遍化したといえる。だが、その一方で、女による権利獲得運動の陰画として、男の中の弱者の存在が浮上してきているのである。
フェミズムの目的は「解放」であるとうたわれている。しかし、問題は、フェミニズムが所詮、女のものでしかないという点である。フェミニズムの原理は、男を否定することに依拠しているのである。
例えば、フェミニズムがいう「まなざしの恐怖」には、弱者の立場をアジールにして立てこもり、そこから下克上を狙うフェミニズムの隘路が見える。
その「女だけが「見られる恐怖」を知っている」という俗説は、フェミニズムを「弱者のための社会思想」とするのに資するどころか、あからさまに女を特権化した視点であり、フェミニズムの枠組から男を「敵」として排除するものである。さらに、それを「限られた女だけが味わう恐怖」とするに至っては、女の中にも差別を温存することを自明視している。
その差別感は、自らが「見られる恐怖を味わうという特権」をもつ自覚と一体のものとなっており、そこには、これまで虐げられていた者たちの逆支配への願望がにじみ出している。平等をうたうその一方で、差別の構造をそのまま温存し、自分だけを新しい強者に位置づけようとするその姿勢は、あまりにも暴力的だ。下克上の思想は、平等の思想では絶対にありえない。
また仮に、フェミニズムヒューマニズムだったとして、そもそも「人間」として規定されない者はどうすればいいというのか。フェミニズムはそれに答えない。否、嘲笑を以って答えている。
一方だけに手を差し伸べる「解放の神学」は、もう一方に対しては「抑圧の神学」となり、さらに俗説レベルにおいては、ただ下克上の論理としてのみ機能している。フェミニズムが女権獲得運動として、下克上を目指す解放と連帯を掲げている限り、それは永遠に敵を必要とするものでしかありえない。
即ち、打倒すべき対象としての男社会が断固として存在し続けない限り、現在のフェミニズムは存在できないのである。もはや、これは巧妙な詐術に等しい。解放をうたい、被差別に苦しむものを救うと見せかけ、その実、差別構造の温存だけが「結果」としてつむぎ出される。
そして、敵を足場とするフェミニズムのもう一方の足下には、新たなる不可視の被差別階層――これまで女性が置かれていた位置に、すり替え、あてはめ、笑い見下すための安全装置が存在している。――それが、非モテなのである。
憎むべき敵と笑い見下す非人を踏み台にして立つフェミニズム。その論理を見た時、喪男の選択はあまりにも正しい。
フェミナチ」と罵倒し、ミソジニーに走り、消極的に男社会を固持する喪男の姿勢は、まさにフェミニズムの陰画としてふさわしい。フェミニズムが差別を踏み台にした下克上でしかないのであれば、その上部構造たる敵の位置に身を置くことこそ、生存戦略として優れた判断と賞賛されこそすれ、非難されるいわれなどない。復古主義的な男権論は、それこそフェミニズム自身が望んだもの、いやフェミニズムそのものなのだ。
こういうと、それは所詮、俗説のあげ足取りであってまっとうな学説には届かないという向きもあろう。
だが、現在のフェミニズムが、俗説と学説をアイロニカルに織り交ぜることを実態としている点をどう説明するのか。そのスタイルは、まさに男社会で権威主義なアカデミズムの作法からすれば、十分に脱構築的なポジショニングであったのかもしれない。しかし、それがアカデミズムという閉鎖空間を超えて、社会一般に向けられたとき、いったいどれほどの人間が「まっとうな」メッセージを受け取っただろうか。解釈の自由性、差別と偏見の助長にすら開かれた可能性について、あまりに見積もりが甘いのではないか。あるいは、自らが獲得したアカデミシャンという男権性が、踏み台を要求したとでもいうのだろうか。こうまで、混乱した言説を撒き散らした後になって、「届く人間にだけ届けばいい」とでもいうつもりなのだろうか。だとすれば、それはなんという欺瞞、なんという不誠実さか。
もはや、女だけを弱者として特権化することはできない。同時に、強者として男を特権化することもできない。だからこそ、「弱者としての男」を「解放」するための潮流こそが、必要とされているのではないか。
だが、そこにもまたフェミニズムの隘路が潜んでいる。
男の不安こそが女に対する欲望の発生装置である以上、もし、真に男が「解放」されて安心を得たなら、もはや女の生む能力など何の価値ももたず、女が欲望されることなどなくなるのではないか――。これへの暗黙の恐れが即ち、女に「自由」を、男に「らしさ」を、というフェニミズムのダブルスタンダードを生んでいるのである。
つまり、選ばれる=欲望される対象としての自己の価値を自明に、無自覚に温存しつつ、自らもまた選ぶ主体であろうとしているのである。これは、何ら差別構造を解消するものではない。まさしく巧妙な論理のすり替えである。女の「生む性」としての特権的価値を維持した上で、「生ませる性」たる男を選別の対象として見下すものである。
そのように「生む性」という地位に絶対的に踏みとどまるフェミニズムは、バックラッシュ派が「伝統的価値観」の危機を叫ぶのとは裏腹に、実に保守的な性質をもっているのである。つまり、男女の性差の絶対視という地点において、両者は水面下で手を結んでいるのである。
「生む性」を価値として、財としてまなざす限り、フェミニズムは決して「弱者のための思想」足りえない。フェミニズムが「生む性」としての女性を基軸とする限り、それはもたざる弱者の思想ではありえない。そこには常に、「一部の」という枕詞が必須となるだろう。
即ち、ヘテロセクシャルであり、選ばれる存在であり、かつ選ぶ主体である、強者としての女性のための思想――それが、フェミニズムなのである。
選ぶ者、選ばれる者であろうとするそれは、まさに選民主義に近しいものなのではないか。
そして、ことここにおいて、「フェミナチ」という蔑称が一呼称の域にまで浮上してくるかにも見える。が、それはひとまず置こう。だが事実、フェミニズムは選ばない者、選ばれない者に対しては、差別と抑圧を講じて恥じるところがないというのが現実である――「オナニーして死ね」と。
この文章を、バックラッシュとして捉える向きもあるかもしれない。だが、私はポストフェミニズム、あるいはラディカルフェミニズムの一端だと自負している。
日本に生まれ男であるというだけで悪として糾弾の対象となるというのでは、あまりに旧左翼の退避所のようではないか。行き詰まりに逃げ込んで、いったい何が解決するというのか。ジェンダーを切り裂くというのなら、あくまで徹底を追究してこそ、時代にふさわしい境地が開けるというものではないだろうか。
それを拒むなら――バックラッシュと仲良くつるんでいるがいい。


③ 第四の性――レラティブ・フラタニティ

狼に襲われ、虎に踏み敷かれる非モテ。鯛男と喪男の中間に位置する未分化な非モテ。「男という病」を先鋭かさせた非モテ
そう、「非モテ」とは「男に不自由する男」のことなのである。
ならば、これはやはり、個人の「自己責任」に貶めるのではなく、セクシャリティの問題として立ち上げていかねばならない問題なのではないか。
しかし、非モテにとって「男らしさ」はおろか、フェミニズムもまた見まごうことなき敵となっている。
では、どこに基点を置くべきであるのか。そのヒントは、セクシャルマイノリティたるクィア――同性愛者たちのとる政治戦略にある。
ゲイ・レズビアン等のセクシャルマイノリティ性的少数者は、実に圧倒的な理論武装戦略をとっている。
今や、一つのジェンダーカテゴリを示す呼称として確立している「クィア」は、当初、蔑称であった異常者というレッテルを逆手にとったものである。「モテない者」という蔑称に発する非モテもまた、これに倣うことは十分可能だろう。
また、カミングアウトという形で自らの存在を公に知らしめることで、その身を投げ打って一歩を刻むということもなされてきた。非モテにおけるカミングアウトの例としては、小谷野敦もてない男』、本田透電波男』などが挙げられるだろう。
そして、クィアたちの言説の積み重ねは、「クィア理論」という一つのジェンダー理論を結実させるところまで来ている。自らの政治的立場を確保するアイデンティティポリティクスとして、非モテが倣うべき点は大いにある。
だが、もちろん問題が無いわけではない。
根本的な問題は、「クィア理論」が、「正常」に対する「真逆」の対抗言説によるポジション確保の運動だということである。つまり、クィア理論はあくまで、同性愛を軸とした規範的性=ヘテロセクシャリズムに対抗する言説だということである。
この点についていえば、非モテはやはり、セクシャルマイノリティというよりも、ポリティカルマイノリティ=政治的少数者というべきだろう。その性的嗜好ヘテロである故に。そしてそれ故、非モテアイデンティティポリティクスとして、クィア理論は使えないのである。フェミニズムが女にのみ基軸を置くのと同様、クィア理論もまた同性愛にのみ基軸を置くものなのである。アイデンティティポリティクスの限界として、ホモソーシャルという性質からはやはり逃れられないのである。
しかし、非モテは、男に対抗する女でも、ヘテロに対抗するクィアでもない。それを考えるに、クィア理論は「クィア以外の者への排除の言葉」として機能しているといえるだろう。もはや、時代は「差異」のより微細な、あいまいな地点までをもあぶりだす所まできているのである。
故に、非モテフェミニズムでも、クィアでもない、新たなる道を切り開かねばならない。男でも女でもクィアでもない、「第四の性」を導かねばならない。
それは、男であるという「現実」を核にすえる微細な差異と、その相対性の自覚に基点をおく主張である。
この相対性は、正常や規範からほぼ永久に両立しない。それは微妙に中心から離れ、正常からあいまいな距離をおく。この「第四の性」とは即ち、性的相対主義――セクシャル・レラティビズムとでもいうべき、相対的な「ズレ」のセクシャリティとしてあるのだ。
足場のないあいまいな切り口だという批判もあろう。しかし、これはそれぞれの「現実」から発した行動とその反復を前提としている。また、非モテの居直り、あるいは理論武装による自己正当化だとの批判もあるかもしれない。しかし、これを「社会における個人が立脚する大前提としての相対性へと徹底的に進行するプロセス」だとすれば、ある位置から見れば後退となるだろうし、またある位置から見れば前進となるだろう。ならばこれは、ある意味で終わりなき革命=「民主主義の永久革命」の一端でもあるのではないか。この文章は、その第一歩を意図している。
そして、すべての男は非モテであるといい、非モテを「自然」なもの、「自然」に発生するものとしたこと。これは、ある種の戦略的「自然」主義でもある。この文章は、非モテを「男という自然的性別に病として内包されたもの」とし、「自然な性」という欺瞞を意図的にちらつかせ、「自然」相手には頭を垂れるであろう相手の「誤解を招き入れる」ことで、こちらの存在を「理論を越えた=理論にたどりつかない」地点で認めさせるというトリッキーなものとなっている。
そして、これが俗説に過ぎないという批判は意味をなさない。そもそもここは学知の場でなどないのだから。
非モテに必要なのはこうした「獲得の神学」なのではないだろうか。だとすれば、「解放の進学」を説くフェミニズムが弱者としての男を救わなかった、むしろ否定してきたことにも説明が付く。それは、そもそもベクトルが180度異なっていたのだ。「解放」を唱えながら「連帯」を目指すフェミニズムと、「獲得」を唱えながら「独立」を目指す非モテレラティビズム。はたしてどちらが、より矛盾しているのだろうか。
結局、非モテの希望を一言でいえば、それは「非モテらしくありたい」ということなのである。自らの内なる理由をもって生きることを許されたい、それだけなのである。つまり、非モテ言説とは、ただそれだけのことが許されないという差別・抑圧に対する抗議、なのである。
すべての弱者はマイノリティなのである。全ての病理的分類とは、その時代に応じた政治的要請に過ぎず、病人とされた人々の実質は、少数者=マイノリティであるのである。ならばなおさら、数の大小だけを理由にして、非モテを差別し、侮蔑し、嘲笑し、塵芥と見下すことに、何の合理的な根拠もないのではないか。
「君はストレート?クィア?それとも何?」と聞かれたら、これからはとりあえず「レラティブだ」と答えることにしよう。
そして私は、真実の愛など求めない。――求めるはただ、友愛を交わすフラタニティである。






クリルタイ編『奇刊クリルタイ』2006年、p4-18より)

*1:しかし、manとwomanについてはこの限りではない。ちなみに、ラテン語で人間を意味するhomoは、両性に対して平等な概念である。

*2:働きアリとは、生殖能力のないメスアリである。

*3:DNAの発見は、1953年。

*4:ハヤカワSF文庫『祈りの海』所収

*5:あるいは逆に、男の孤独に対する耐性は、自らの性が抱える非存在性が故なのだともいえる。

*6:これと同時に、別な方面、進学率の向上という面において、思考や哲学といった形での「らしさ」が行き渡る可能性もあったが、第二次産業を引きずる「労働」の論理である実学主義によって、それは次々に否定されていった。

*7:その「まなざしの恐怖」は、アイデンティティ内在論に基づいているといえる。それを説くのがオタク男子であれば、過剰な自意識として一笑に付されるであろう。だが、同じ言葉が女性だから、「フェミニズム」だからという理由で「許されて」いる。ここにも、非対称形の差別構造が存在している。

*8:1910年代に登場した女性のパンツルックを発明したのは、ココ・シャネルである。

*9:蔦森樹:http://homepage2.nifty.com/mtforum/tsutamori.html

*10:これを逆にいえば、男が人間として抱える問題というのは、ペニスを所有していることによって、その存在を喪失させている、即ち自らの存在を失っているということになるのではないか。だが、もちろんこれは、当のラカン理論からすれば誤読である。なぜならラカンは物理的なペニスについて語ったのではなく、人間精神の象徴として「ペニス」という言葉を使った「だけ」だからである。その、「だけ」という意識こそが問題なのだが。