漫画を哲学するかい?

永井均『マンガは哲学する』

永井均は『マンガは哲学する』のまえがきで次のように述べる。

二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。世の中の内部で公認された問題とは違う、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されているように思われる。(中略)
いや、それどころか、ひょっとすると、マンガと言う形でしか表現できない哲学的問題があるのではないか、と私は感じている。

永井は、「哲学的感度」ということばを繰り返し使っている。そして吉田戦車が持つ哲学的感度をほめちぎり、つづけて自分の体験を語っている。

話はそれるが、私は大学の教員をしていて、哲学を学ぶことが哲学的感度を殺してしまう例を、毎年のように見ている。大学一、二年のときには、まだ輝くほどの哲学的感度を持っていた学生が、本格的に哲学の勉強をし、大学院進学を決意しはじめるころには、もうすでに哲学界で哲学の問題であるとされているものを、ただこねくりまわすだけの人になってしまっているという例を、何度見てきたことだろうか。


これはすごく大切なポイント。
(ん?まぁ今このときの自分にとって、です。)
誤って批判しがちなのは、これを「「マンガ」に拠って立つ文化ナショナリズムである」とするもの。
(まぁ一番そういう風に間違うのは数年前の自分だったわけですけどね。)
真に汲み取るべきポイントは、
「世の中の内部で公認された問題とは違う、世の中の成り立ちそのものにひそむ問題が、きわめて鋭い感覚で提起されている」
というところ。
つまりそれが、「あるいは」“哲学”と称されるものだということ。
さらに真に読み取るべきは、
この「あるいは」という相対性。はたまた並列性。
そういった意味で、「哲学的感度」という言葉はなかなかいい。
“哲学”ではなくあくまで、「それに類するもの」という範囲を、ふくみを持たせた上での言葉の提示であるところがいい。
それにしても、
「哲学を学ぶことが哲学的感度を殺してしまう」というのは、悩ましい問題だ。
そこで「殺される」タイプの人間でなければ、またそのような「哲学的感度」を持ち得ないのだから。
そこで殺されないにしても、また別のところで「殺されてしまう」ような人間でなければ、この「感度」を持ち得ないというところ。
そして、もっとも肝心なことは、
この「感度」をあくまで個別独立的に開花させるということ。
「哲学という鉄の檻」に囚われずに、社会のあらゆる場面においてそのきっかけをつかみ、つむいでいくということ。
しかし、もっとも肝心な問題は、
もっとも肝心なところで、この「感度」を開花させた人間の多くが、あまりに個別独立的に過ぎ、その言葉を分かつことができないということ。
あまりに、特殊独自な言葉に拠り過ぎるが故に、その「感度」が交流を図れないということ。
その意味で、「哲学という鉄の檻」にも、交流を促すという点では、ちゃんと意味があるのだ。





そういう意味で、漫画を哲学するという枠にもちゃんとした意味があったのだということ。





タイトルとオチは親友にだけ向けたごくピンポイントなネタ。