「万人向けの文章を強要するのは暴力的」?だけどもそれが「ニュース」ならば

Re: Person I don’t know - 万人向けの文章を強要するのは暴力的#c#c
上のようにおっしゃられていますが、「馬鹿にも伝わる文章しか書くな!、というのは言葉のファシズムである。」というのは、まぁ言い過ぎです。
たとえば一つの例を挙げると、

内藤正典-中東・西欧マンスリー-9・11から5年〜アメリカはなにを間違えたのか 2006.10.3
本稿は、9月12日にNHK教育テレビ・総合テレビで放送された「視点・論点」での原稿に加筆修正したものです。この放送に対して、多くの方からコメントを戴きました。今日の状況に対する私の説明が新鮮であったという内容が多かったのですが、このことは、専門家として深刻に受け止めなければなりません。いまの日本には、イスラームや中東の研究者の層がかなり厚くなっているのですが、やはり、学者の言葉では、伝わらないものがあることを認めざるを得ません。学者は、自分たちにとって当たり前のことを発言しません。しかし、それでは学問本来の目的を見失ってしまいます。

このようにバリバリのアカデミズムを本職とする方もわが身を省みておられるように、公共に向けられた文章というのは、「質」が求められるのと同時に「工夫」もしくは「技術」が求められているのです。


そして、およそそれを定めた「ルール」が、「基本的に義務教育修了レベルの読解力で読めるものでないといけない」というものです。


自分が大学に進学した時には、「ついつい」「さらっと」「無意識の内で」「悪意なしに」、「この社会には中卒の人間もまたたくさんいるのだ」という単純な事実を本気で忘れてしまいがちです。


しかし、いくら社会がより高度複雑に変質しているからといって、現時点では(まだ、といっていいのかはわかりませんが)、「義務教育が中学校までで終わっている」ことは変えようのない事実です。


で、あれば、公共に対して、つまり、あまねく広く社会全体に対して、知識学力の区別なしに人目に触れさせることを前提にした文章においては、先の「ルール」を守ることが半ば義務として求められるのです。


その代表が「ニュース」です。


テレビで「字幕が多用されたり」、新聞で、「漢字がひらがなになったり」「文字が大きくなったり」「絵や写真が増えたり」しているのは、すべて、この「ルール」に基づいた「工夫」なわけです。


「馬鹿にするな」とか「その程度は常識だ」とかいう声も当然挙がりますが、それでもやはり「読めない人」「わからない人」というのは「いる」のです。


犬の足下にひざまずくことをよしとするようなザ・ワールド・オブ・変態であるところの、はてな市民には分からないかも知れませんが、中卒の人、高卒の人というのは、思っている以上にたくさんいるのです。


というか、それがあたりまえなのです。


だから、冒頭の引用を引けば、


「「馬鹿にも伝わる文章しか書くな!、というのは言葉のファシズムである。」というのは言葉のファシズムである。」


ということになるのです。









ま、もちろん、個人的には馬鹿であることに居直るような人間には容赦なく[これはひどい]タグを付けたりしてるんですが、それを言い出すとこのエントリがすべて否定されてしまうような気がするので、この段は読まなかったことにしてください。