まちがいだらけの「男女本質論」その2、セックス編

Ohno blog(2006-10-20):非モテ女が見えないのはなぜ?

セックスで男は物理的に「能動」であり、女は「受動」だから、セックスで主体たりうるのは男の方である。体位とかそういう話ではない、男にすべてがかかっているということである(男が勃起しないと挿入はできませんし、男が射精しないと終わりません←原則として)。そして多くの場合男はずーっと女を見ているが、女はそうではない。男が見る者=主体で、女が見られる者=客体であるのは太古の昔からの話だ。


「男は物理的に「能動」であり、女は「受動」」ね、ハイハイ。
確かに、一見して物理的に「能動」:「受動」の区別はハッキリしてるように見えるけども、でもそれが所詮、相対的な文化尺度の産物でしかないってことに、もっと敏感であるべきではないのか。
セックスを軸とした男女の本質論など、生物的行為として見れば単なるプロセスでしかないものを政治的にフレームアップしただけのものでしかない。
本質論的にモノを言うなら、人類の生存と発展に関わる最大要素である、女性の妊娠出産にこそ焦点を当てるべきだろう。
十月十日の身体の変容とまさに命をかけた数時間の格闘。
それに比して見れば、男性の能動的行為など所詮、クソ・ションベン並みの排泄行為でしかない。
ソレが一瞬で終わるあっけないものであることなど、それこそ多くの女性が広くご存知のことだろう。
アクビまじりででもできる男のソレのどこが能動的なのか。
百歩譲ったとしても、ソレは生理的反射に過ぎない。
それをさも「能動」であるかのように言祝ぐことなど、どこまでいっても政治的なものでしかない。
妊娠そして出産という女性が行う事実として確実に物理的な、そしてまさしく能動的な行為が「受動」的なものだとする断定は、明らかに旧来式のジェンダー観そのものである。
また、男性の勃起を理由にしてその「主体性」を云々しようというそれも、社会規範生成後の倫理観に基づいた言説に過ぎない。
むしろ、「生物学的」に「本質」を語るならば、勃起できなかったオスはメスに捨てられるだけの話で、そこにおいて、男性に「主体」はなんら保障されていない。
さらに、見る/見られるという点でも、男性がパフォーマンスを見せることによって女性の目線を惹くという客体化をもって性のきっかけにしていたという事例こそ、文化人類的な事実である。




旧来式のセカイ観に乗っかったほうが商売がやりやすいのかも知れないが、「太古の昔から」などというゴタクはもはや賞味期限が切れたどころの騒ぎではない。*1

*1:せめて「古来の昔から」とか言えっての。(←こうどな文科系ギャグ)