自殺しなかった男

中学一年の二学期。
基本的に他人を信用しなくなったのはこのときからだ。
感情とは他人に見せるものではないと学習したのもこのときだ。
自分の喜怒哀楽の全ての操作を他人の手中に奪い去られるなど、
自分の喜怒哀楽の全てが他人の意のままに「笑い」にされ「怒り」にされ「慰みものにされる」など、
まともな神経を持つ人間であれば、それはおよそ耐えられるものではない。
自衛するためには、自分自身を守るためには、相手が誰であろうと決して感情を顔に表して見せないこと。
感情というものを全て否定し自分の中から消し去ること。
それが最善にして唯一の防衛策だった。
他人は信用できない。
絶対に信用してはならない。
信用した瞬間に自我が他人の手中に奪われ、時と場所を選ばず永遠に嬲り者にされる。
それが真実だった。
ぱっと見サワヤカな人間こそが最も疑わしいという原則を見出したのもこのときだ。
それはクラスの中心ではなく2番手3番手あるいはその周辺にいる連中こそがもっとも忌むべき存在であるという確信である。
底辺校でありがちなヤクザヤンキーまがいのDQN連中が中核を占め、そしてそれらをヨイショする「運動部に所属するクラスの人気者達」。
それこそが最も忌むべき、呪うべき、唾棄すべき存在であった。
事実、ことが一応の収束を見せてなおしつこく「いじり」「からかい」という形の最も陰湿な行為を継続していたのがこの連中だった。
頭を叩けば一応は接触をやめる衝動的、突発的なDQN連中に対して、この下種どもの腐り方は狡猾さを交えた耐え難いものであった。
「自分以外の人間」は全て基本的に敵である。
その事実が、真実として、この体に刻まれている。
誰にでも優しく寛大で親切な人間はこのとき死んだ。
心は消え、感情は消え、残った魂も言葉を失った。
ではなぜそこで自殺しなかったのか。
考えなかったわけではない。
ではなぜそこで自殺しなかったのか。
その理由はただ一つ。
「こんなクダラナイ連中のためになんで俺が死ななければならないのか」という怒りだった。
クダラナイ。あまりにクダラナイ。どう考えてもクダラナイ。
卒業すればすぐにでもヤクザになりそうな社会のクズどものために何でこの俺が死ななければならないのか。
その怒りが、死ぬという大きな思いを上回った。
あるいは、死ぬという行為に及ぶまでの行動力がなかったのかもしれない。
だがもしその行動力があったとしたら、
自分が死ぬ前に一人でも二人でも道連れにしていたことだろう。
「深夜相手の家に灯油をまき家ごと焼き殺すルート」
「小麦粉を吹き上げる箱を送りつけ粉塵爆発で家ごと吹っ飛ばすルート」
「授業中に後ろから忍び寄って汚物付きの刃物で首の頚動脈をかき切るルート」
どれもこれもやっておけばよかったと思う。
だが、自分が死ぬことも含めて、行動力がなかったのだ。
今悩んでいるものがいたら、相手をやるなら今のうちだと言いたい。
14才になってからでは遅いのだ。
自らの手で復讐を果たし、そしてできるならばその後司法の道を取り、検察として合法的に腐った人間を社会から抹殺することを目指すことをお勧めする。




「自分以外の人間」に対する怒りは永遠に消えない。
機会があれば皆殺しにするくらいの気持ちはあれからずっと残っている。
もし手を加えずに見ているだけでそれが死ぬという場面に出会ったとしたら、
間違いなく、いや喜んでそれを見捨てるだろう。
それに向かって笑顔を見せながら。
それがかつてしたこととまったく同じように。
それがもはや忘れたであろうかつてそれがしたことをじっくり踏みにじるように。



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