「国際人教育」の終わり――「国家」は特定の主義主張に含まれません!?

asahi.com:教育行政、「不当支配にあたらず」 国会審議で文科相 - 政治

伊吹文部科学相は22日の参院教育基本法特別委員会で、政府の教育基本法改正案が、教育は「不当な支配」に服することはないと規定していることについて「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合を『不当な支配』と言っている」と語った。一方、法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことから、「不当な支配」にあたることはないとの考えを強調した。
現行の教育基本法は「教育は、不当な支配に服することなく」と規定。政府の改正案も、この表現を踏襲しつつ、「法律の定めるところにより、行われるべきだ」との規定が追加された。
これまで教職員組合などは「不当な支配」の規定を、教育行政による教育現場への「介入」を阻止する「盾」と位置づけてきた。また、9月の東京地裁判決では、国の学習指導要領に基づき国旗掲揚・国歌斉唱などを強要する都教委の通達や処分が「不当な支配」にあたると判断された。
しかし、伊吹氏は、政府案の規定は、教育に対する「政治結社、イズム(主義)を持っている団体の介入を排除する」目的だと説明。むしろ、一部の政党や組合などによる「介入」を念頭に置いていることを示唆した。
一方、安倍首相は、国旗・国歌について「学校のセレモニーを通じて敬意・尊重の気持ちを育てることは極めて重要だ」と強調。「政治的闘争の一環として国旗掲揚や国歌斉唱が行われないのは問題だ」と批判した。


一言でいうなら、「もはや「国際人」ではない「国家人」である。」ということが言いたいのか。
なればなるほどこの戦後、あれだけうるさくかまびすしくも、上も下でも叫ばれた、「国際人だ国際人」との祈り念仏題目を、180度の正反対にみごと転向せしめると、そういうことかそうですか。


しっかし、ネイションという概念を無前提に無条件に丸ごと鵜呑みにするという態度を養う場が、学校という名で呼ばれるなんて、これはいったいどういう種類の笑い話なんですかね?
社会科の教科は、以後これからは「歴史」じゃなく「神話」の時間と呼んだほうがよさそうですね。
>>>関連@今日行く審議会@はてな - 批判的まなざしのない授業


はいそれで、学校という場や教師という職業を、聖域なり聖職者なりといった風にまなざして、その実態をブラックボックス化しておきながら、その同じ口で「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合を『不当な支配』と言っている」ですか。「政府案の規定は、教育に対する「政治結社、イズム(主義)を持っている団体の介入を排除する」目的だと説明。むしろ、一部の政党や組合などによる「介入」を念頭に置いていることを示唆した。」ですか。



ヘソで茶が沸く、ナベが吹く。



じゃあ、今すぐに日本中の私立学校に公安の強制捜査を入れろっての。腐れ老害が。
いますぐ強制収用を行って、「国民学校」に改組しろっての。
それから、与党の側におられる特殊な宗教政党が幼稚園から大学まで所有しておられるというのはご存知でしたか?
これってもちろん特定の偏ったイズム=主義主張を持っている団体が教育機関を運営しているんですよね?
そんなことが許されていいんですか?
え?与党にいるから問題ない?いやはやなんともソウデスカソウデスカ。



あ、それからちゃぁんと中華人民共和国様や朝鮮民主主義人民共和国様方に「国民統制のノウハウ」について、ご指導ご鞭撻いただくんですよ?オジイチャンた・ち!


<追記:重要>
穴に向かって叫ぶ : イブキ文科大臣の発言について報道以上に恐ろしい内容かもしれないので記しておきます。

「不当な支配」とは「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合」だとイブキは言っているが、別の答弁機会には以下のようにも言っている。


「国民全体の意思でないグループ、あるいは国民全体の意思でない思想によって教育を行うという場合、これは当然それ(不当な支配)にあたる。」


これだけ読んだらオウム真理教のことなんぞを思い浮かべ、ついうなづいてしまうかもしれない。しかし忘れてはいけないのが改悪案第十三条だ。


十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。


つまり、団体やグループではない家庭において、親が個人的価値観(思想)―キリスト教、仏教などの各宗教、または最近はやりのシュタイナー教育モンテッソーリ教育などの特定の教育観(つまり思想)―に基づいて行う教育も「ダメ」となる可能性がある、ということだ。今後決まる法律、政令、大臣告示とその「個人の価値観」が矛盾することがあれば、それら法律などと「矛盾しない限りにおいて」しか子どもに教えたり、実践してはいけないことになるかもしれない。


実はこれは敗戦前に国民に押し付けられていたことのソックリな繰り返しである。例えば戦前にも信教の自由は「あった」。ところがその「自由」とは、天皇崇拝の国家神道に違背しない限りにおいて、というありがた〜い条件がつけられたものだった。


これなんて全体主義
もうこの国は笑い事じゃない段階にすでに入っているみたいですね。
ま、テロリストからすればどうでもいいことですけど。