オーマイニュースは「鳥越俊太郎の鳥頭日記」だ!!


そう考えると全部すべてまるっとどこまでもお見通しだ!ということです。



もし仮に、音羽記者が一ブロガーとして記事を書いていたら、いったいそれはどのような結果を衆目にさらしていたでしょうか。
そう、単なる炎上です。
付け加えていえば、炎上したから馬鹿だというのではなく、たとえそこに一抹の真理があったとしても、大勢として「炎上キャラクター」として消費されてしまっただろう、ということです。
つまり、このブロゴスフィアにおいては、あらゆる記事は、あくまでもどこまでも相対的な出来事として、まさに、受信者の能力の如何によっていかようにも読み取れるワンオブゼムの出来事としてしかありえないということです。



その意味で、鳥越俊太郎という受信者は、そこに「市民社会を乱す「2ちゃんねらーという輩」を打ち砕いた若き英雄の誕生」を見出し、それを喜んだわけです。
その構図そのものは、特に否定することではありません。



ところが、その記事がオーマイニュースという「ジャーナリズム」を標榜する「メディア」上で公開されていたということになったとたん、そしてあまつさえ、その代表として輝かしく表彰されたということになったとたん、これがまったく別の様相を見せることになってしまったわけです。



その騒動の内容の如何は他に任せるとして結論だけ言えば、結局のところ、オーマイニュースがやったことというのは、
ジャーナリズムという活動を市民記者による市民メディアという場で展開することで一般化するのではなく、
市民記者という特権的肩書きによるメディアとして構成することでジャーナリズムを特権化するということであったのです。



そして、それに対して、Web2.0という「公開・交流・交換」の行動理念を常識化したネットワーカーやブロガーやあるいはマルチチュードが、その旧態依然の異様な振る舞いに落胆したというのが、今回のボヤ騒ぎにも似た騒動というわけです。
いくばくかでも期待をしなければ、ネタとして消費することもないでしょう。



ですが、そのオーマイニュースの振る舞いは、やはり、自分のシンパに餌付けをして忠誠心を競わせるという、あくまでもどこまでも党派的な行為が行われているに過ぎないというほかありません。
そして同時に、一般ブロガー風情の無給労働は何の価値ももたず、党派活動によって得られる経済的利益こそが社会的価値の証明なのだという鳥越編集長以下の思想信条を証明してもいるわけです。



そういう意味で、鳥越俊太郎が代表を務める「良心的市民の良心的市民による良心的市民のための市民メディア」としてのオーマイニュースというのは、自らの取り巻きを集めてヨシヨシすることで悦に入る木村剛が主催するゴーログと、そのスタイルにおいて奇妙な相似形を形作っていると言えるでしょう。
つまり、「市民記者」という肩書きが、「木村剛のゴーログ」の「それでは、○○さんの××をお楽しみください」という決まり文句の代わりとして機能しているということです。



今後もオーマイニュースがこのスタイルを堅持していくというなら、せめてゴーログ程度には、ネット的なポジショニングをとらなければ勝ち目はないでしょう。
故に、私はオーマイニュースをより端的に、本質的に、そしてよりネット的に、こう呼びましょう。






鳥越俊太郎の鳥頭日記」と。