「オーマイニュース」は存在しない

オーマイニュース編集部に行ってきました。(上)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」
オーマイニュース編集部に行ってきました。(下)-Parsleyの「添え物は添え物らしく」

上のインタビューからわかったこと。


オーマイニュース」は存在しない。


オーマイニュース」に意見はない。
オーマイニュースの意見」という統一見解はない。
オーマイニュースの意見」という統一見解を編集部が作り上げることはない。
オーマイニュースの意見」という統一見解を形成しかねない、「コメント欄を通じたコミュニティ形成」は「行わない」。
「市民記者」という肩書きをもった人たちによる一体感は「必要ない」。
鳥越編集長をはじめ各編集部員、各市民記者に至るまですべてが個人として独立し、個人としての意見を基に活動している。
「単なる個々人の集合体」というのが、オーマイニュースの理念。
その個々人を個々人として規定するために必要とするのが、実名での露出ということ。


オーマイニュース」の記事に「日記」が多いのも、そもそもオーマイニュースはジャーナリズム的な文脈での「記事」を掲載する場でも、掲載しようとしている場でもないということがその理由。
よくて、ジャーナリズム的なものが「掲載できればいいな」というレベル。
あくまで、「投稿された文章」を受け取るのがオーマイニュースの第一義であって、「文章として文脈として破綻がなければその内容の如何を問わずに掲載する」というのが原則。


なぜなら、オーマイニュースはそもそも検閲のよりどころになる意見や伝えたいことを持たないから。


これはつまり、「見られる存在」としての「オーマイニュース」という概念を持っていないということ。
あるいは、「オーマイニュース」という一個の仮想人格が「受動的」に/「不可避的」に存在する/存在させられるということを理解していないということ。
自分たちは、オーマイニュースというフラットで公平でオープンで無味無臭で不偏不党な「場」を提供している「だけ」の「つもり」だということ。
「投稿」と「掲載」のあいだに挟まった「編集部というフィルターの存在」が、外部からどのように「見られる」のかについての意識がほぼ欠けている。
重要なのは「場の運営側、場の提供者側の意識」であって、「閲覧者」がそれをどのように判断しようと、「読み手」がどのような意見を持とうと、「自分たち」に「正しい運営理念」さえあれば、それですべての回答に代えられるという姿勢。


オーマイニュース」とは「ニュースサイト」ではなく「原稿料がもらえるブログ」だと考えるほうが正しい。
ならば、「オーマイニュース」とはある種の「営利企業主催のハブブログ」あるいは「ブログポータルサイト」だったということか。
つまり、「ニュース」や「ジャーナリズム」というたいそうな看板を掲げたところに、そもそもの語弊、認識のすれ違いの原因があったということ。
その看板の掛け違えが、編集部の側にも、市民記者の側にも、閲覧者・読者の側にも、それぞれ誤解・すれ違い・カン違いを生んでいたのだということ。
編集部の「取材」機能も、いわば「見せ金」的なオプションに近しい。
編集部内から意見や伝えたいことが「ない」のだから、新しい事実が発掘されたところで、編集部が「意見」を持って行動するようなことにはつながらない。
各市民記者が個人の力量でやればいいだけの話、という呼び水的な姿勢装置か。


そして、そこから垣間見える「個人の意見がすなわちニュースである」という原則は、他のブログホスティングサービスと何ら変わるものではない。
あるいは実名登録すらも、原稿料の銀行振り込みの手続きに必要だから求められている「だけ」なのだともいえる。


すべての責任は、書き手の「自己責任」なのだから。




結論。「オーマイニュース」は存在しない。




オーマイニュース」は存在しない。