「心でっかち」と「心理学化」へのメタ書評、コピーはやっぱり大事だよというお話

心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想

心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想


この『心でっかちな日本人』という本なんですが、2002年の発行でもうアマゾンで新刊がないんです。
つまり、重版されてない、売れてないんです。
でも、中身を別サイトでうかがってみると、どうもこれは内容の問題というより、コピーに失敗した、あるいはマーケティングに失敗したせいなんじゃないかと思ったわけです。
「心でっかち」って、ぶっちゃけ言いにくいですよね?

心でっかちな日本人: 紀伊國屋書店BookWeb


本書は、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取っていき、その裸の姿を明らかにする。

第1章 日本人は集団主義ではなかった
第2章 心でっかちの落とし穴
第3章 心でっかちな文化理解を取り除く
第4章 内集団ひいきはどのようにして生まれるのか
第5章 だれもが皆、心の道具箱を持っている
第6章 心の道具箱を整理しよう
書名 心でっかちな日本人


サブタイトル 集団主義文化という幻想


著者
山岸俊男
著者略歴 : 1948年、名古屋生まれ。一橋大学社会学部卒、同大学院社会学修士課程修了後、ワシントン大学社会学博士、北海道大学文学部、ワシントン大学社会学助教授を経て現職。社会心理学専攻。
現職・肩書: 北海道大学大学院文学研究科教授


<内容>

日本人は集団主義ではなかった。集団主義文化は、心の持ち方さえ変えれば問題は解決されるという「心でっかち」な幻想だった。幻想の構造を解くことで、会社が変われない、いじめがなくならない原因が見えてくる。


ちなみにアマゾンの説明だとこうです。

商品の説明
Amazon.co.jp
終身雇用制の崩壊やリストラ、いじめなどといった日本が抱える問題の根本原因を、すべて「伝統的な文化の衰退」に求める論調がある。西欧の個人主義思想が入ってきて思いやりの心がなくなってきたため、日本文化が衰退し、殺伐とした世の中になってきたという説は、果たして本当なのだろうか。
本書のタイトルにもある「心でっかち」とは、心と行動のバランスがとれなくなってしまっている状態を指す、著者の造語である。日本人は集団主義だなどという通説も、実は心でっかちの思い込みにすぎないということをユニークな実験で実証しているが、心でっかちな思考が、どれだけ私たちの「現実を見る目」を曇らせているかが理解できる。
ただし、本書の大半を占める社会心理学の実験は、似て非なる内容が続き、あまり耳にしない用語も出てくるため、丁寧にたどっていかないと混乱してしまう。やさしい言葉に置き換えて説明されているとはいえ、読み通すには少し努力が必要かもしれない。
「文化は、私たち自身の行動によって生み出され支えられている」ということが理解できると、次に気になるのは、大きな変化の時代にどう行動するべきかであろう。その答えは、本書にはない。ただ、現実を正しく見ようとする人と、心でっかちな見方しかできない人との行動には、大きな差が出てくることは確かなようだ。(朝倉真弓)


内容(「BOOK」データベースより)
本書は、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取っていき、その裸の姿を明らかにする。


「本書は、「日本文化」という神話のベールを一枚一枚丹念に剥ぎ取っていき、その裸の姿を明らかにする。」という文句がオビにでも使われていたせいか同じなのと、目次の内容から見て、どっちでも同じような印象を受けるかもしれません。
確かにこれは、「日本文化論」を扱った内容のようです。
ところが、紀伊国屋のほうにあるある文句が、実は重要なのではないかと思うのです。


これです。
「日本人は集団主義ではなかった。集団主義文化は、心の持ち方さえ変えれば問題は解決されるという「心でっかち」な幻想だった。」


さらにいうとこの部分です。
「心の持ち方さえ変えれば問題は解決される」


この部分を日本文化の核心として批判対象にしていくというのが、この本の要点のようです。


だとすれば、この本は非常にもったいないことをしたのではないでしょうか。
なぜなら、その翌、2003年にはこんな本が出ているのです。


心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか

心理学化する社会―なぜ、トラウマと癒しが求められるのか


これは、「現代の流行として、何でもかんでも心のせいにして心理学に説明を求める「心理主義」のまん延に対する批判」としてかかれた本なワケですが、


それって、実は先の「心の持ち方さえ変えれば問題は解決される」と、ほとんど同じことを言ってるんじゃないのかってことです。


そこから、「心でっかち」の本は、視点や批判分析の内容に対してジャンル、そしてターゲットを誤ったんではないかと思ったしだい。


第一に、「日本文化論」というジャンルを軸に本を作ったために、非現代的、あるいは歴史本的な印象を身にまとってしまった。
「神話のベールを剥ぎ取る」という文句もあったように、いかにも歴史的な問題として文化考察をするという、「カタイ」印象をもってしまったがために、その時点でアピール力を下げてしまったのではないか。
しかし、日本文化には確かにそういう面があり、だからこそこの本の評価も高いわけですが、であるならば、もう少し「現代」を批判の対称にしているという体制を取れなかったものかと思ったわけ。


第二に、そのせいで非常に薄い客層に向けてターゲットを絞ってしまった。
なんてったって、そういう「自文化への批判検討」なんて、よほど好景気で余裕のあるときでないと早々読まれるもんではありません。
むしろ、いまのような超長期にわたる不景気下では、品格がどうのといった、オヤジやジジイ向けのオナニー自文化論しか売れないのです。
そんな中で日本文化論なんていまどき読むのは、文化人類系とか社会学系の学生とかそれくらいのもので、一般人がこれをどっと手に取るなんてことはやはり難しいと考えられます。


あと、やっぱ「心でっかち」というのと「心理学化」というのを並べてみたときに、直感的なインパクトや内容の信頼性、音の響き、見た目の強さなどなど、圧倒的に「心理学化」のほうが強いですよね。
なんか、小学生向けの本みたいな響きのある「心でっかち」に対して、いかにもアカデミックで知的で教養的で現代的でポップな「心理学化」。
「戦わずして勝つ」妙がここに潜んでいるような気もします。




とはいえ、今この本に興味を惹かれるのは、「日本社会の心理主義化」というものがテレビ・新聞・雑誌といったマスコミ現象として可視化、肥大化するはるか以前に、土壌として日本社会にあったんじゃないかということの指摘として、非常に示唆に富んでいるんじゃあないのか、と思ったからです。
つまり、一過性のブームとして「心理学化」を云々するんじゃなく、日本の思想史的な部分に「心理主義」的な思考が脈々と浸透し続けていたところで、その最新バージョンとして、心理学という科学的な言説がクローズアップされたってのが、「心理学化する社会」だったんじゃないかと。


でまぁ、つたない記憶のストックをさらったところ、これにはやっぱ仏教が相当、悪影響を及ぼしているんじゃないか、と思ったのですが、まあ今はそんなのに優先順位つけられないので、誰か考えてください。


たぶんもう島薗先生とかが答えだしてんだろうけどね。