現代日本の結婚と出産について

採用試験において結婚を議題にすること

ためしにこの文章を自分なりに切り取ると、こんな風になった。

私が「結婚観について」と言われてすぐに思いついたのは、結婚というシステムが本当に正しいのか、という疑問であり、そしてまた改善の余地のないものなのか、という問いであった。
(略)
しかしながら、次々と発表するメンバーが答えたのは、皆が揃って「どのようにすればお互いが幸せな結婚が送れるか、そして離婚することなく、まっとうに子供を育てられるか」に関することだった。
(略)
ふと、私が男性であったなら、私の願いは比較的簡単に実現できることに気がついて気が滅入った。要は、得意なことだけやって苦手な家事はしたくない。自分で子供を産みたくない。これだけのことなのだが。
(略)
適度に女性の社会進出を汲んだ保守的な意見をのみ言いえる場で、私は見事にふるいにかけられたわけである。

社会的というより、経済的な要請としての結婚観による、個人的な結婚観の抑圧、疎外とでも言えばいいのか。
出てきたのはそのような内容の文章だった。
なるほど、自分の興味関心とは社会と個人の関係、あるいは大勢の他人とたった一人の自分の関係にあるのだなと思った。


それが、どうも他の人が反応している様子を見ると、より現実的な部分に着目されているようなのだ。


むちゃくちゃわかる。うなずきまくり。ちょっと泣きそうになった。、という文章の反応元は、この部分だろう。

――その時まで意識したことがなかったのだが、私は高校、いやもっと前の中学やそれ以前から、結婚に対して人並みの憧れを持つということをしなかったし、キャリアウーマンというよりは働いて稼ぐ自立した人間そのものに憧れ、そして一人で生きていけるようなプランを築いていたのだった。しかも、家事全般がことごとく苦手であるから結婚するなら主夫、とまではいかなくてもある程度の分担能力を持った人が望ましい。自分で子供を産むなんておぞましくて出来ないから養子を貰いたい、とまでなったら、さすがの私もその場で言うのを常識的な判断で却下したほどだ。しかし、これが私の願いなのである。


そして、上のこの部分に対して、「女性ってある種の「不能者」だと思う。」と付け加えている。

子供一人産むことを考えても、真っ暗な気持ちになる。妊娠している期間が10ヵ月、その間、体調は万全じゃない、身体は重い、無理をしたら大変なことになる。腹に爆弾を抱えた状態。そんな状態でちゃんと仕事なんてできるか。産んだら産んだで、体力回復には最低2ヶ月かかる、後遺症もありうる、乳児の世話は24時間体制。育児休暇を1年取れたとして、1年仕事を休むなんて恐ろしいこと。バリバリ出世したいなら致命傷。これで子供二人なんて言ったら……考えるのも恐ろしい。
(略)
つくづく、専業主婦システムの合理性に感嘆する。当人たちが納得してそのシステムに収まっている以上、誰も何も諦めていない。分業制って素晴らしい。
以前、代理母出産が叩かれていたけど、私は心の中で激しく賛成してた。あれなら、何も諦めなくて済むかもしれないと思ったから。
(略)
同じ理由で、養子にも心惹かれてしまっている。


「すべての男は「非モテ」である」で、女を「生める性」、男を「生めない性」だと言った言葉が、現実の半面だったことを改めて示唆するような文章である。


ところがまあ、さらにその文章に反応したある男の文章を見ると、その現実の反面性のおぞましさというものまで感じてしまうのだった。

特に子供を持つようになると、当たり前のことですがこの世に生を受けた誰もが、二人の男女から産み落とされ、そして少なくない努力が払われていたのだなあという事実を私は強く意識するようになりました。そして、自分と同等、(あるいはもっと(一世代)若さを持ったという点で)自分以上に価値がある生命を生み育てることのすばらしさを痛感しました。

実にステキにスピリチュアルな保守的意見である、とまずはそう思わざるを得ない。
さらに言えば、「健常者でよかったね」と。
スピリチュアル的な思考の本質が保守思考であることについては、すでに幾多の指摘があるわけだが、あらためてそれを裏打ちするような実例というわけである。
そして、問題の次の部分、「男がこういうことを言っている」という点にこそ、大いに引っかかったのだった。

産業化社会が生み出した核家族というバランスの悪い制度によって、今の若い女性に掛かる負担は想像を絶する大変さがあることは間違いありません。ですが、だからといって、子供を産み、育てると言うことを簡単に放棄して欲しくないと思います。丸2年、仕事から遠ざかることは確かに仕事上は不利益になるかもしれません。でも、でもね、子供を持つと言うことは2年ぐらいのキャリアと比較にならないののが率直な感想です。少なくとも私にとっては。

よりにもよって、生みもしない者が「子供を持つと言うことは2年ぐらいのキャリアと比較にならない」と言うのは、あまりにも胡散臭い。
齢35にして加齢臭が漂うとでも言うのか。
なんという欺瞞、なんという傲慢。
産業社会における絶対的な判断指標であるキャリアを持ち出し、「それ以上の価値があるのだから子供を生め」という「説得」。
「生まなければならない性」にとって、これを聞かされるということほどの屈辱はないのではないだろうか。
これもまた、スピリチュアルな「すばらしさ」が、経済的合理性を支えているのだという実例といえる。




とはいえ、これはそもそも「少なくとも私にとっては。」という個人的な意見としてあるわけだから、悪し様に言挙げだけをするのは、少々心苦しい。
しかし、この気持ち悪さはなんだ?という思いもまた事実である。
「ダマレ!!」とどこかの誰かのようにいってしまいたい気もするが、それは自分に言い聞かせるような言葉である。
ならばやはり、このような現実的な問題に際しては、現実的な領域においてのみ語られるべき話なのではないかというのが、現実的な落とし所ではないのか。
つまり、当事者たるパートナー間、配偶者間で、自分たちの現実的生活を設計する上で、子供を持つのか持たないのかを考えればいいということである。
個人的というより正確には、個別的な現実としてのパートナー間、配偶者間の生活に対しては、どんな意見があろうとも、知るも知らぬも逢坂の関というところがほどほどなのだろう。




さらにまた、とはいえ、である。
そもそも「仕事も頑張りたい人並みの家庭も持ちたい、そんな当たり前の欲求を満たすこと」という思いは、社会の経済成長モデルを心中に暗黙の内に温存しすぎているのではないだろうか。
成長発展、上昇拡大、それこそが社会の本質だと断定するが故に、それに付き添うべく、付き従うべく、自らの体をささげなければならないという衝動に駆られているのではないだろうか。
現に、日本社会はこの十数年間、下降縮小してきた。
日本社会は下降縮小しても、存続してきたのである。
それにより多くの人が死に、これからも死んでいくわけだけれども、それでも社会は存在してきた。
ならば、「人が増え、物が増え」ということを前提にした、「仕事をがんばって金をたくさん稼いで、二人くらいの兄弟姉妹を育てられるくらいのことは、当たり前として考えたい」とするのではなく、
「人が減り、物が減り」ということを前提にして、「仕事をするのは自分の生活の価格を上げるのではなく、自分の生活の価値を上げるためにするのであって、子供も自分の現実に応じて考える」というように、
根本的な考えについて、あらためて意識を向けることこそ、現実への一歩なのではないかと思うのです。




だって、資産100億のホリエモンですらまだ独身なんだから。*1
あ、そうそう、生まれも育ちも今の立場も国民とはまったく異なる安倍総理も子供はいないんですよね確か。その意味では、今の少子化時代にふさわしい人だといえるのかもしれません。




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*1:訂正:離婚したんだそうです。息子が一人いるのだとか。ちなみに月々の養育費は50万円だそうです。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/yw/yw06021901.htm