恋愛からの自由―「恋愛普遍主義」批判―

「恋愛普遍主義」とは、「恋愛とはすべての人間が誰でも同じように体験可能なものである」とするものである。


恋愛や、非モテ喪男の文脈で問題にされるべき争点とは、この「個々人が持つあらゆる偏差を善人面をして塗りつぶし、誰もがみんな同じ条件を等しく持っているのだとするあきらかにゆがんだ悪平等思想の押し付け」なのではないのか。


対して、恋愛至上主義とは、「恋愛こそがこの世で最も価値のあるものだ」、「恋愛をしない/できない人間は価値のない人間だ」とするものであるが、
この考えは、「人間なら誰でも恋愛ができるはずである」という恋愛普遍主義を前提としている。


また、恋愛資本主義/恋愛市場主義とは、「恋愛をすることはまったく「自由」で「楽しい」ことである」とのメッセージの下、経済活動や消費活動を単一の方向に方向付けるものであるが、
これは、その裏側に潜む「恋愛をしなければならない」「恋愛をしなければ人間ではない」という恐怖感を煽る脅迫的なメッセージとセットになっており、そしてそれが恋愛至上主義に基づいているということはあきらかである。


ここから導き出される答えとは、次のような階層構造である。

【大前提】 恋愛普遍主義
【中前提】 恋愛至上主義
【小前提】 恋愛資本主義


つまり、恋愛を問題化して、批判検討をするのならば、そもそもの大前提である「恋愛普遍主義」をこそ、対象にしなければならないのである。


よもや「誰もがみんな同じ条件を等しく持っている」と考える人はいないだろう。


だのになぜ、誰もがみんな同じように一定の年齢に達したら「初恋」をし、「恋に恋を」し、「本当の恋」をし、「大人の恋」をし、そしてその成果として「恋愛結婚」をするなどという馬鹿げた考えを抱くのか。


先天的盲目の人間に、お前の目が見えないのは努力が足りないからだという人間がいるか?
手のない人間に、物がつかめないのはお前の集中力が足りないからだという人間がいるか?
足のない人間に、正座ができないのはお前の根性が足りないからだという人間がいるか?
内臓に障害のある人間に、お前の体が弱いのは精神が歪んでいるからだという人間がいるか?


もしいたとすれば、それをいう人間の精神こそがねじ曲がり歪みきっているのだ。


みながみな同じような状態になければおかしいとする考えこそが異常なのだ。


自由恋愛という言葉は、恋愛の価値そのものを相対的な交換可能な一選択肢にする意味でこそ使われるべきなのだ。


非モテ喪男に必要なのは、「恋愛の不可能性」を嘆くことではなく、「恋愛からの自由」に喜びを感じることなのだ。




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