『動物化するポストモダン2』読まずに書評

というかそれは印象論だろ、と。
にしても、エロゲやってないと理解できなさそうな「ゲーム的リアリズム」というのがはたしてリアリズム足りえているのだろうか?
足りえているとしても、それはエロゲユーザー層に留まるもんなんじゃないか。
ま、ゲームを自称しているブログの書き手が何を言うのかという突っ込みに照らし合わせてみれば、ネットも「ゲーム的なるもの」の一部であることになる、か。
だとすれば、インターネット化という意味での情報化社会のリアリズムを評しているものなのか。
それとももっと広い意味でのデータベース化を意味する情報化社会を評したものなのか。



それにしても、「ゲーム的リアリズム」というのは実にキャッチーじゃないコピーに聞こえるんだよなぁ。
紙媒体を志向する多数派の人たちってのは、ゲームと言やあ「ゲーム脳」を思い出すだろうに。
厚さが増えようが何しようが届くところには届くんだろうけど、それでいざ「かゆいところ」に届くんだろうか?



「ゲーム」を通じて未来を見通すなんてできるのかなあ、とそこまで言うとこのブログの全否定にもなるのでやめとこう。



ま、このエントリは読まずに書いた印象論です。念のため。



ゲームだのなんだのの批評よりも、有名人にはもっとこう「ポスト近代的自我」のなんたるかについての簡潔なガイドを示してほしいのだけれども。
ガジェット的なパフォーマンスを抜きにして、もっとこう広い意味でキャッチーに。



やっぱそれこそ「ポスト近代的自我」って、ポストモダンが終わらないと事後的に確認できないものなのかしらん?
でもそれこそ、批評として有効足りえてないよなあ。
ボードリヤールが亡くなった今、文字通りボードリヤール的なものに明らかな死亡宣告を出さないと、いつまでも近代的自我の亡霊を引きずったままでは、ポストモダンを生きる指針にならないと思うんだよなあ。



スクラップ・アンド・ビルドでも、スクラップ・アンド・スクラップでも、まだ何かが足りてない。