「梅田望夫の正論」で知るネット社会の危険度

たとえ、発言の内容が同じでも、発言者と表現方法によって、受け手にとってその発言の重みは変わってくる。
これは発言者が無名だからといって、その発言に価値がないと言っているいる訳ではない。
Webにあるフラットさというのは、あくまで「参入機会の平等」であり、「発言が人に及ぼす力(影響力)の平等」ではないのだ。
何らかの活動をしてきて積み重ねがある人と、そうした積み重ねがない人の間には、発言の影響力によって差が出るのは、しょうがないのではないか。
※内容は間違っていると思うけど、あの人は有名な人だから何も言わないようにしよう、というのは確かに良くないが


正論を賞賛したくなるのは、信頼している相手から言われた時だけ : ARTIFACT ―人工事実―
http://artifact-jp.com/2007/03/26/justargument/

有名であればあるほど、陳腐な正論が喝采と賞賛を浴びる可能性が高まるということか。
やっぱ、それってお追従笑いじゃんか。

自分の地位は低いと感じると、できるだけ多くの、同じ感情を持つ相手を必要とする。
つまり、こうした境遇を生き抜くには同類の仲間作りが欠かせない。
それを円滑に進めるため、直接的な利益がなくても「とりあえず笑ってしまう」という行動を自然にとってしまうのだといいます。
自身で考えて、戦略的に笑うというよりも、自分の状況を感じて本能的に反応してしまうのです。


経営者倶楽部:「社長のジョーク」で知る会社の危険度
http://nvc.nikkeibp.co.jp/free/COLUMN/20070323/107876/


言い換えればこうなる。

ブロガーは自分の地位は低いと感じると、できるだけ多くの、同じ感情を持つ相手を必要とする。
つまり、こうした境遇を生き抜くには同類の仲間作りが欠かせない。
それを円滑に進めるため、直接的な利益がなくても「とりあえずブクマで褒めてしまう」という行動を自然にとってしまうのだといいます。
自身で考えて、戦略的にコメントするというよりも、自分の状況を感じて本能的に反応してしまうのです。

つまり、発言自体に新しさもなければ、その反応自体にも新しさがなかったということだ。


しかし、「読者層が増えるにつれて、発言が生み出す意味が「発言の内容」のいかんに関わらず変質していく」というのは、よほど慎重に意識を保っていないと、そのことに気づかないし、忘れてしまうということの方が多いという難しい問題だ。


とくに、ソーシャルブックマークが誕生して以後のブログ世界とそれ以前のブログ世界とでは、その違いがまた大きなものになっているだろう。
すなわち、ブックマークコメントという形で「笑い」が可視化された状況下においては、自らが下すはずの政治的判断が先行する「笑い」に明らかに左右されやすいということだ。


孤立独自の自立的近代的自我から、衆人環視の他律的ポスト近代的自我への変質とも重なる話か。


あるいは、<「自分という編集フィルター」>の中に含まれる「内面化された他人」という問題か。


ハァ、いったいどこまで編集コストを自己負担しないといけないのだ、この情報化社会は――