高齢出産はすべきでない、という個人的信念

<それは「がんばる」ようなことなのか?>
「無理をすること」を「がんばること」だというなら、それはそもそも手段と目的を履き違えていないか?
いつぞやのクローズアップ現代の特集では「受精卵の顕微鏡写真」を「わたしの子供」だと表現し、抱きかかえる女性が紹介されていた。
それは・・・・・・その女性にとっては幸福への道なのだろう。
だが、はたして子供にとっての幸福への道であるのだろうか?


そして、リスクがリスクとして顕現したとき。
高齢出産という「自己実現」によって、子供が障害をもって生まれたそのとき。
その子は、はたして「わたしの子供」として受け入れられるのだろうか?


つい先日の週刊誌の広告に、「生き抜いて」弁護士の大平光代氏が40歳にして出産し、そしてダウン症の女児をもうけたという記事の見出しが出ていた。
曰く、「ダウン症の娘は私の女神」と。


ああ、その子が死ぬまでの面倒を見られるだけの社会的条件と財産があるからこそ言えるセリフだ。


「勝ち組」女性の「自己実現」のダシに使われる子供が、子ども自身が、僕の目には悲しく映って仕方がない。


「生き抜いて」弁護士のこれからには興味がない。
大多数の障害児の保護者とは天と地ほども違う条件で、優雅に「個性的な子供」を育てていかれるのだろう。


だが、こんなメッセージを発する無責任さにだけは、我慢できない。

「私は、どんな方法でも挽回できることを体験してきた。
もしできなくても、それはそれで、この子の個性だと思う

読売新聞 2006年12月7日
http://www.prop.or.jp/clip/2006_7/061207yomiuri_t.htm


「勝ち組」になった女性ならいいさ。
高齢出産に「挑もう」と「がんばろう」と。
勝って得られたその金で、子供を飼っていけばいいさ。


だが、それ以外の状況にある女性がこの間違ったメッセージを真に受けたが最期、待ち構えているのは「自己責任」の無限地獄だ。


それが「美しい国」の掟だ。


どんなスピリチュアルな奇麗事でも美化できないものがある。


id:hashigotan、あなたがそれを言うのか。