「非モテ」たちの「カサブタ」としての「学校」批判

また君か。@d.hatena
http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070804#p1


ようするにいままで見聞きしたスクールカースト問題は
(略)
自称 C クラスのひとたちの一人称がにじみ出すぎていて、それ以外のものには見えないわけだ。


「学校」が必要な人間と、「学校」を必要としない人間がいるということ。
結局、仲間なり「なまか」なりをやりたくて仕方がないために構築される想像の共同体としての「学校」か。
でもって、「学校」派は「学校」の存在を確固たるものにするべく、非「学校」派を(以下ry



これはちょっとした、「学校」補完計画だな、とも思える。



あるいはさらに意地悪な目線を加えてみるなら、そこにある欲求はある種「学歴の補完」的な要素をも含んでいるのではないか。
自らの「理想的」な「学校」を構築し、その「在学期間」を自ら延長することによって、「同期の桜」の数を増やし、その「連帯」を強固なものにし、「共同体」とその中での「地位」を手にしようという。



より身もふたもない露骨に失礼な話をするなら、
スクールカースト」という単語を喜んで使う人というのは、見た限りでは、高卒か一般レベルの大学学部卒の人たちだったと思う。
国公立レベル(偏差値60以上?)のレベルの大学卒の人では、この言葉を使って「楽しむ」という様子はあまり見受けられなかったように感じた。



もちろん、それはあまりにアホな目線なのであって、もう少しまともなことを言うなら、
スクールカースト」とは人生をある程度充実させている人(リア充)の余興、だということができるだろう。
ある一定水準の保険なり保障なりを確保できているからこそ、そこで初めてカサブタを剥がして楽しむことができるというものだ。
だからこそ、どんなに「嫌な思い出」として語れらようと、わざわざその「学校」を「会社」の中に延長してまでも楽しもうとするのだ。



俺のカサブタはこんなに大きい、いや俺のカサブタはこんな色だ、云々と。



そして、それこそがこの言葉の最大の問題点なのだ。
要するに、いい年こいた大人がハナ歌混じりで行う軽いアソビを、そのまま現役の学校在校年齢の子供に与えたら、それこそ身を削ってやるよりほかにないバクチ的な状況に追い込むことが確実だろう、という点だ。
だからこそ、この言葉が出始めて早々にいいかげんにしたほうがいいと言ったのだが、とうとう頭の悪いAERAが今度この言葉に社会的な実体を与えてしまうまでになったらしい。



状況は考えられうる限り最悪だ。



何度でも言う。「いい年こいた大人がばかなことはやめろ」


卒業した人間がいつまでも学校に幻想を抱いているんじゃあない。


今学校にいる人間に幻想を押し売りするんじゃあない。


批判精神のない歴史言及は、観光ガイドがやる歴史の授業のように醜悪だ。




「僕たちは楽しくあそんでいるだけなんだ」?




それは加害者が使う言葉遣いだということに、気づかないとは言わせないぞ。