「忘れる」能力について〜心理補正能力の差異〜

人間は誰しも失敗する。

だがそれから受ける心理的影響はそれぞれの人間観でまったく異なる。

一つとして同じものはない。

たとえ驚くほど似通って見えても、決定的な差異がそこにはある。

それを理解しない人間ほどこんな言葉を口にする。



「傷つくことが怖いだけだろ」「傷つくことを恐れるな」

「精神的な逃げは許されない」「精神的に弱すぎる」

「怠けるな」「もっとがんばれ」「ふざけるな」「いいかげんにしろ」「甘えるな」



それはその人間が暗黙の内に、いや公然と、人間が犯す失敗はすべて同質のものであるということを信じていることを示している。

ひいては、すべての人間は普遍的平等的にまったく同じ条件をもった存在であるという極めて危険かつ暴力的で誤った信念を抱いていることを示している。

もはや狂信といってもいいレベルにおいて。



同じ失敗に見えても、「同じ失敗」などその本人の中にしか存在しない。

同じように見える他人が、まったくの別の個性・環境・条件を備えた別人であるように。

鍵となっている点だけを取り出せば、それは心理的補正の能力の差異ということになる。

それは一言でいうと「忘れる能力」である。

「立ち直る」ということは「忘れる」ことである。



人間は誰しも物事を忘れる。

だが、何が原因なのか一体全体どうしてか、忘れようと思っても覚えようとしているわけでもなくそれどころか記憶から消し去ろうといくら時間をかけたものでも、ふとしたはずみで何かの拍子で思わぬことがきっかけで、嵐のように蘇る悪夢というものがある。

それを理解しない人間ほどこんな言葉を口にする。



「しつこ過ぎる」「粘着質過ぎる」
「立ち向かえ」「克服しろ」
「精神的な逃げは許されない」「精神的に弱すぎる」
「怠けるな」「もっとがんばれ」「ふざけるな」「いいかげんにしろ」「甘えるな」



それはその人間が暗黙の内に、いや公然と、人間すべてが自分とまったく同様に嫌な記憶をカンタンに忘れることができるということを信じていることを示している。

自分が「忘れることができる能力を持った人間」であることを理解せず、いや、その「弱い人間」が「不必要な記憶を抱えなければならない身体を持った人間」であることを理解せず、すべて精神的な問題は本人の努力しだいで精神的に解決ができるはずだという極めて危険かつ暴力的で誤った信念を抱いていることを示している。

もはや狂信といってもいいレベルにおいて。



これは「覚えている」のではなく、本当は「忘れられない」という問題であるといった方がよく、さらにそれは「忘れよう」という作為の過不足が問題なのではなく、常日頃は忘れていても、自分でも気づかない内にある暗号条件がそろうと自動的に引き出されてしまう、引きずり出されてくる「記憶の構造」の問題であるといった方が正しい。


そしてその「失敗の記憶」は、時間軸を超えてまったくの同時的体感を伴って蘇る。

度忘れた=回復した問題が、ふたたび当時とまったく同じ強度、質、感覚、条件を伴って再生され、全身を駆け巡るのである。

これはもはや「回復しない」ではなく、「回復できない」のだというほかはない。

そしてそれは同時に、一度の失敗が単に一度の失敗となるのではなく、一生涯にわたって続く未来永劫の失敗であることを意味している。

回復ができるのなら、忘れることができるのなら、思い出すことがないのであれば、失敗をして傷つくことも当然いとわないだろうし、恐れることなどないだろう。

だが、回復ができず、忘れることができず、思い出さざるを得ない身体を持った人間にとって、失敗するということは、地獄を意味する。


だから、傷つきやすい人間にとっての最良の選択肢はこうなる。




失敗する機会そのものをなくすこと。


失敗する可能性に参加しないこと。




それでもまだ、「弱い人間」を追い詰めようというなら、あなたは立派なテロリストだ。


精神論というイデオロギーを振りかざし、それに組しない人間を破壊するテロリストだ。