あるいは一つの冴えたやり方

550 miles to the Future: ■怒りをこめて、ふりかえれ■
http://mega80s.txt-nifty.com/meganikki/2008/01/post_17d4.html


かくいう俺は、昨年、ある仕事を下りた。理由は、担当者の態度に腹が立ったから。「ギャラも要りません。後は勝手にやってください」と。その後、俺の代わりに仕事を請けた人が辞め、その次の人も辞め……で、いまやグダグタになっているという。因果応報というやつだな。悪がひとつ滅んだ。
だから、蔑み・嘲笑は何も生まないけど、怒りには効能もあるんだ。蔑むぐらいなら、自分の名にかけて怒ればいい。後悔は、中年になってからでも遅くない。


とはいえこれは、その「場」から離れることができる、という前提があってこその話かもしれない。
他人を変えようと思わなくなった人間に向かって「お前は変われ!」と言われた「状況」が、今しばらくは引き続く。
感情だけで完結する頭の悪い人間に向かって懇切丁寧に説明をしようというのは、気力・体力に余裕が充実していてこそだ。


怒りは正義か、やっぱり破壊か。












それともやはり、「沈黙」をもって我と我が身とともに破壊を選ぶべきなのか。


近づくべきでは無い人間に、近づかなければならなくなった、という時点で失敗だったとは思う。
だが、それを言うなら、そもそもこの「場」そのものが、自分にとって足を踏み入れるべき場所ではない。
だが。
問題は、だが、という点だ。




俺は誰も助けられないし、同時に、誰にも助けを求めることはできない。


せいぜい「悪役」をまっとうすることしかできないのか。


「もはや語るまい」と言えればどれだけ楽なことか。