現代ネット社会の「都市」空間と「村」空間

はてブはムラの可視化か - novtan別館
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20080208/p3


やれ、はてな村だのはてブ村だのはてな貴族だのはてな元老院だのと言われ続けて久しいこのテーマだが、要するにそれは都市型生活の身体感覚と村型生活の身体感覚の差によって生まれる問題意識なのだろうな、と気づいた。
差というよりも、変化と言うべきか。
もはや、現代日本において都市生活者の方が、村生活者よりも圧倒的多数を占める、つまり「普通」になっているのだから。



「都市」と「村」。
それを別の言葉で言い換えれば、匿名空間と顕名空間ということになる。
地縁・血縁から断絶する/させることで流動化した/させたことで成立する匿名的生活様式が「常識」化したあとにおいては、あらゆる顕名的な様式がムラ的、村的に見えるということか。


さて、もう次に何を言わんとしているかは、お分かりのことと思うが、
2ちゃんねるが支持されるのは、それが暗に「都市」の機能をそのまま引きついだ空間だからに他ならない。
あるいは、匿名生活に「適応」した生活様式をもった人間がもっともなじみやすいのが「2ちゃんねる」だったと言えるかもしれない。*1


スクランブル交差点ですれ違う人間の名前を全部覚えていなければならないとしたら、それはどんな生活になるのだろうか?
――これはちょっとしたSFだ。*2


が、その一方で、日本では近代化の過程において「都市」の中に「新しい村」が作られ、現在でもその村に所属していなければ人間扱いされないという、現実が並列してある。


「会社村」である。


目と目が合う、肌と肌とが触れ合うような顕名的な生活様式というのはここで確実に保存されている。
いやむしろ、目と目が合わせられなければならない、肌と肌とを触れ合わせなければならないという強迫感は、より強化されているのかもしれない。
「都市」化によって匿名化され、バラバラに切り離された個々人にとっての最後の命綱として。


ネット上の「村」論において、常に目の敵にされているのが、「株式会社はてな」という一つの会社の提供するIDという半顕名生活様式を「強制」するサービスであることは、実に示唆に富んでいる、と言えるかもしれない。
しかし、それは少し言いすぎになる。
現在の「村」論=匿名顕名論は、むしろ、2ちゃんねるが一般化したことによって都市型生活様式=匿名的生活様式が強化された後に発生した問題だとも見えるからだ。
そもそも2ちゃんねるが「一般化」する前のネット文化というのはハンドル名という仮の名前≒偽名を通じた、半顕名生活様式の方が「普通」だった(らしい)。*3


だとすれば、この一連の「村」論=匿名顕名論というのは、「都市」形成後における社会契約の構築過程という政治的、歴史的に見ればしごく一般的な現象なのかもしれない。

つまり、今は新大陸における「独立宣言」前夜というわけだ。

さまざまの事件や権謀術数、工作・暗殺が日々交わされる現状は、産みの痛みというものなのか。




とはいえ、明治維新という前例を見るかぎり、日本における「社会」形成の先行きは暗いものにしか見えないのだが。




<追記>〜mixiからTwitterはてなハイクへ〜

「危機感あるが、頭打ちではない」 mixi笠原社長に聞く成長戦略 - ITmedia News
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/08/news013.html


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http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/08/news013.html

2008年02月08日 satmat mixiで連投するとあまり良い印象を与えないっぽいのだが,Twitterはてなハイクみたいな短文連投系ツールに慣れてしまったせいで,mixiをあまり使わなくなった.


という感覚も、「電車の中で独り言を言う」のと「歩きながら携帯電話で話す」のとの違いだと考えれば、その差が何に起因しているのかわかりやすいだろう。
要するに、「都市」を志向する(ことになる)大型サービスにおいては、いかにして「匿名的な身体感覚」を技術的に再現するかということが、ネックになるということだ。
いかにして、ハンドルネームやidを意識させずに利用を続けさせるか、という問題。
「誰が」ではなく、「何を」にだけ注目させ、個々の人間を組織化、集団化させずにバラバラの個人のままにとどめ、それでいて一律に管理・運営・コントロールができるようにするか。




……しょせん、ネットは現実の二次創作のようなものでしかない。
だとすれば、力ない個に細分化され祭やサーカスによって「動員」されるしかないという、この国の個人が有する暗い現実を前にすれば、いくら赤やオレンジで彩られたところで暗い管理技術が生まれるほかないだろうとしか思えなくなってきた。

*1:――もちろんこれは、ある種「一般化」しすぎた見解であり、これに言及したくは無いが「日本独特の文化的風土」が尾を引いていることもまた確かである。

*2:余談になるが、『デスノート』では一般的に不可能なものとして描かれていた。

*3:だって、元ニフティユーザなんてオッサンじゃないからー!