混乱の二重奏【書評】『アーティスト症候群』【広告】その1


結論から言えば、「残念ながら」著者はこの本での宣言に反してアーティストに戻るだろう。
戻らざるを得なくなるだろうというのが、結論である。
そして、そうでなければこの本はアート界のゴシップ誌としてのみ消費されて終わるだろう。


一読して感じたのは、本書におけるアートと「アート」、アーティストと「アーティスト」の区別(大文字のArtと小文字のartの区別)が非常に困難だということである。本書に語られる現実がそうであるのと同じように。
その理由は、おそらく第7章で語られる著者がアートをやめたという告白の中に含まれている。
すなわち、著者がアートというジャンルに対する不信感が原因でアートを降りたということは、「降りる」ことを「答え」にしたということであり、それは「アートに対するメタ批判という位置をもって答えに代えた」ことだと言える。すなわち、「アートとは何か」という問いそのものを保存したまま、「アートとは何かという問いが存在する」ということを「答え」にしてしまったことが、著者の姿勢、そしてこの本の内容の理解を困難にする最大の原因になっている。
「問い」から逃げたのだとは言わないが、「逃げられない問い」がアートというものなのではないか。そして、それはなにもアートというジャンルに限ったことではない。
あるいは、人生とは他者との間の最大公約数的な利害の一致を模索するプロセスであり、信念とはそのための手段なのかもしれない。
ならば、その「信念=答え」をアート以外のもので代替できたのであれば、著者にとっての「問い」は解決されたといっていいし、それに他人が文句をつけられるような筋合いはない。
だが、この本が「アートという問いを語る」という趣旨で描かれている以上、「アートという問いが残る」という結論は、はたして妥当なものと言えるだろうか。それこそが、この本に対する読者からの拒否反応を生み出す原因となっているのだから。
しかしまた、そこには「わかりやすい答え」という落とし穴が待ち構えてもいる。答えの決まった問いとは、すでに問いではない、という。
もちろん、人間は常にそれを求める生き物であるし、当然、高度分業化した社会において一々の問いを「自己責任」で咀嚼する時間もないのが現実である。たとえ、数学の証明の問題を楽しめる人間がいたとしても、そのような「プロセス」に耽溺できる人間はやはり少数派だろう。
なによりも、「アートとは何か」についての「わかりやすい答え」が提示できたとしたら、それははたしてアートと呼べるのだろうか。
それができない問題ではない、というのがまた難しいところだ。
作品が作家の存在を抜きにしてマスイメージを形成するに至るまでになれば、それが「アートとはこのようなものだ」という理解、「アートとは何か」についての「わかりやすい答え」に到達することができる。「芸術は爆発だ」という岡本太郎や「アートとはビジネスである」ことを示した村上隆のように。
それは、彼らの人生そのものが語る全身全霊をかけたプロセスの開示だといえる。それらは「アートという問い」から降りなかったから、降りることを拒否したからこそ、それに対して投げ返すことのできた「答え」である。逆に言えば、そのようなごく少数の恵まれた結果のみが「答え」となりうる「困難な問い」こそがアートであるという現実である。
だが、「降りた」と思っている内は、その「問い」をその身の内に積み残している証拠であり、なにを以てしてかアートに対する「答え」を提示できない限り、遠からず、著者はアート的なるものに触れざるを得なくなるだろう。その端緒はすでに、あとがきに示されている。


そして、その「問い」への回避が生み出した本書が抱えるもう一つの困難は――、<続く>