「まつろわせるもの」の隠蔽【書評】『思想地図 vol.1』川瀬貴也「まつろわぬもの」としての宗教【広告】


キーワードは「世俗化」である。


論者の言葉によれば、「世俗化とは宗教をノイズとして処理することが冒涜的ではなくなる過程」ということになる。その上で、論者が前提として掲げる歴史をさらにさかのぼってみれば、宗教とは、政治であり哲学であり科学であった。だとすれば、「世俗化」とは何も宗教に限ったことではなく、「権威あるものをノイズとして処理することが冒涜的ではなくなる過程」と言うことができるのはないのか。


その視点に立ったとき、本論で語られるものとはまた別の、あるいはまったく反対の答えが導き出されるのではないだろうか。




前提として示される教科書的なおさらいにおいて、論者は「宗教」という語が「非近代」の代名詞として機能していることを示し、近代とはまったく反対のものであるという視点から以下の論を進める。まず、戦後日本の宗教受容について、敗戦直後の不景気時には「近代化」と一致したものとして消費され、高度経済成長という好景気後には「失われた非近代」として消費されるようになったという。それは物質的回復を説く教義から、精神的回復を説く教義への変化ということになるが、本論は「宗教」論であり、すなわち狭義の教団宗教論ではないためそれ以上は触れられない。


だが、このような「宗教」という立ち位置がまたこだわりとなり、「宗教性」の顕現を見いだしても、もう一方の「宗教性」への気づきを暗に回避してしまっているようにも見える。以下、その視点を軸に本論を読み解いていく。




本論が主題とするのは、「医療」の現場において立ち現れる「近代性(合理性)に回収されえないものとしての「宗教性」」である。


論者はそれこそが「もっともリアルな「宗教性」」というのだが、そのリアルとははたして「わかりやすい答え」以上のものとなっているだろうか。




まず例に挙げられるのが、「エホバの証人の輸血拒否」である。


だが、そもそも血に対する信仰というのであれば、ナショナリズム、右翼的言説もまた血に対する信仰そのものである。「日本民族の血」「薩摩隼人の血」「武士の血」などなど枚挙にいとまがない様は、貧血でめまいを起こしそうである。最近では、疑似科学的装いを加え「日本人のDNA」などと言うことも多い。「エホバの証人」という「れっきとした宗教団体」と、一部の人間が好む俗説を並べることの方がおかしいという指摘もあるかもしれないが、メディアを通じて触れる機会となれば、いったいどちらの「血に対する信仰」の方がポピュラーであろうか。試しに料理番組でも見てみればいい。そこはまさに「血まみれ」になっている。


さて、本論では、「エホバの証人」の輸血に対する姿勢が、実は治療拒否ではなく「治療に対する自己決定の度合いが少し高いだけに過ぎない」とし、現実問題として無輸血治療の技術が進展する現在の医療においては、その要求が何ら非合理的なものではないと言うことを示す。そして、「エホバの証人の輸血拒否」に対する我々の「驚き」は、それが「治療の自己決定」=「インフォームド・コンセント」を支える論理が「宗教」というプレモダンなものであることによるのだ、と指摘する。


だが、それはいささか倒錯した指摘なのではないだろうか。むしろ、「エホバの証人」のプレモダンな要求は、医療技術というハイパーモダンによって支えられるようになった、ハイパーモダンの成立によって通じるようになった、というべきではないのか。さらに、「インフォームド・コンセント」がプレモダンな論理に支えられたものだとする指摘も、そのような韜晦を経ずとも、モダンな論理の発展こそがそれを支えているのではないのか。


そこでこそ出てくるのが論者が冒頭にさらっと示した、実は本論をひっくり返しかねないキーワード、「世俗化」である。すなわち、「医療」という「権威あるものをノイズとして処理することが冒涜的ではなくなる過程」=「医療」の「世俗化」を経てこそ、我々は「インフォームド・コンセント」を獲得し得たのではないのか。だとすれば、見いだすべき「宗教性」は「驚く」ほどわかりやすい「宗教」の側にではなく、もう一方の「医療」の側の陰にこそ、その本体が潜んでいるのではないのだろうか。




次に挙げられるのが、「脳死・臓器移植問題」である。


脳死」がいっこうに進展しない中で主流となっている日本の生体臓器移植の現場では、「家族愛」が強制されて臓器提供が行われているという例が示される。対象的に、隣国の韓国ではクリスチャンの「隣人愛(博愛)」が主体となって、日本の十年間分の移植事例数を一年で大幅に上回るペースで「脳死・臓器移植問題」が行われているという。また、日本における「脳死・臓器移植問題」についての「宗教」側からの言及が教団内部のみに止まるという指摘は、特に日本仏教の特色である社会的メッセージ(社会変革的メッセージ)を発信しないという事実が裏打ちするものといえようか。


しかし、論者が指摘する「何となく嫌だ」「合理的に納得できない」という「宗教性」は、「脳死・臓器移植問題」でのみあぶり出されるものなのだろうか。そうは思えない。むしろ、そのような感性を持つ日本人は、かのミイラ事件を起こした宗教団体ライフスペースや、あるいは「人間は死んでも生き返る」と答える「ゲーム脳」の子供たちを少しも笑えないのではないのか。


山岳事故や海難事故を思い出して欲しい。どう考えてもすでに死んでいる人間についても、「死体」が発見されない限り「死者」扱いをすることがタブー視されるというこの国の「空気」は、まぎれもなく「宗教性」に満ち満ちているのではないのか。日本人の「死体」に対する信仰がはっきりとここには示されている。「バラバラ殺人」に対する「民意」が過剰なまでの拒否感を示すのも、これとまったく同じ論理によるものだ。合理的に考えてみれば、それは死体を処分することを容易にするための単なる手段に過ぎない。にもかかわらず、ご丁寧に「死体損壊罪」という罪状まで用意されているのだ。


「家族愛」よりも「死体愛」の方が強いのが日本の現状なのだ、と言えばいい過ぎだろうか。そして、こうまで前景化した「宗教性」があるにもかかわらず、それがあまりにも「当然」すぎるため、後景に退かされているものこそ、もう一方の「宗教性」なのではないだろうか。




三つめに挙げられるのは「水子供養」である。


そこでは、その「非常に「個人主義化」した宗教」が1970年代頃から発生した新しいものであることが示される。そして、アメリカにおけるキリスト教神学に基づく人工妊娠中絶問題の激しい議論と対照的に、日本では中絶が個人の問題として静かに弔われ、「自己に眠る「宗教性の確認」」として行われていると論者はいう。


だが、それもまた「宗教性」の「顕現」だとして特別視するよりも、都市化され個人化された先祖供養の一側面、旧来の「宗教」から地続きのものだと言うことはできないだろうか。なによりも、「1970年代頃から発生した新しいものである」という事実がそれを裏付けている。高度成長期において、農村から切り離されて都市労働者となった次男三男を吸収して大きくなったのが新宗教であることはよく知られている。その原理は彼らが失った先祖供養システム≒仏壇の代替物の提供であった。それと同じ文脈において、本来なら実家における先祖供養の文脈≒仏壇の中に回収されていた胎児の弔いが、先祖供養≒仏壇から切り離されたことによって、それ自体が先祖供養≒仏壇を代替するような特別な位置にスライドしたとはいえないだろうか。


ここでも、その「水子供養」を「発見」してしまうそのプロセス自体に、もう一方の「宗教性」がからんでいるように思える。




最後に挙げられる例が、「先端医療=万能細胞や遺伝子治療」である。


それに対しては世界共通の「違和感」や「拒否感」が存在するという。特に、「無宗教」を標榜する日本においては「宗教的指針のようなものを持たない」ために「「むき身」の状態で対峙することとなり」、そこからかえってカウンセリングなどの「宗教性」が必要とされるようになっているという。「恐るべき」遺伝子診断を前にして立ちすくむ人々がそれを乗り越えるためにこそ「宗教」が機能し、信仰を持たない人々は逆に遺伝子診断そのものを拒否するのではないか、と論者の指摘がなされる。そこでは「近代」が「非近代」で上書きされるという奇妙な信念の上書きが行われている――ように見えて、実は重要なのは、もう一方の信念の強化の方であるのだが、それはひとまずおく。


続いて、それが広くはテクノロジーによって「「内なる自然」たる人体に干渉(エンハンスメント)」するという問題だとしてクローズアップされる。ハーバーマスアーレントの言葉を引きながら、そのようなテクノロジーによって「設計された」子供などが生まれた場合、人間の「本質的な「自由」や「不完全さゆえにお互いに人格と平等性を認め合い、不完全さを補い合うべく連帯することなど人間の弱さから生じる「人間の条件」」が毀損されるだろう、という危機感が表明される。


そして、ここにきてついに、もう一方の「宗教性」のまったき前景化が訪れる。すなわち、「拒否することによって自分の「人間性」を確認している」という一文に示される「人間性」なるもの。この「人間性」への信仰、「人間主義」「ヒューマニズム」こそが、もう一方の「宗教性」、信仰していることすら意識されない真の信仰、「近代」における「神」なのである。


ヒューマニズム」が、なぜ先端医療に「拒否」を示すのかと言えば、その先端医療テクノロジーが、技術によって物理的に人体を改造するという「ポストヒューマニズム」そのものであるからに他ならない。




まとめに先だって、論者はこのような事例において立ち現れる「宗教性」が、「信仰なき現代人にとっての「聖の顕現(ヒエロファニー)」なのだ」という。だが、宗教機能主義に立つ論者がこのような単語をサラッと吐くのはよほど会議で疲れていたのだろうとしか思えない。せめてそこは「信仰なき現代人」ではないのか。


それはさておき、締めとして論者は、「「宗教」のあり方を、「まつろわぬもの(服従しないもの)」という用語で表現」する。「近代性(合理性)に回収されえないものとしての「宗教性」」が「まつろわぬもの」だという意図であろう。だが、振り返ってみて、いったい何が何に「まつろわない」ものだったろうか。




「輸血拒否」においては、「宗教」は「医療」とまったく意を同じくしていた。それは、人命尊重という真なる信仰、「人間主義」を介して通じている。


脳死・臓器移植問題」においては、「死体愛」に代替される論理として「家族愛」が提示されていた。それは、「人間性」という真の信仰なしには共有しえない。


水子供養」においては、その「発見」の過程において「人間性の確認」という目的がクローズアップされている。


そして、「先端医療」においては、まさに「医療」そのものが「人間性」という「神」に対して「まつろわぬもの」としての性格を露わにしている。


こうして見れば、「宗教」とは「人間主義」=「近代という真の宗教」に「まつろうもの(服従するもの)」以外の何者でもなく、「まつろわぬもの」とはテクノロジーによって「人間性」を「破壊」する、「医療」に対してこそふさわしい呼び名ではないのか。*1




また、社会に「再結合すること」を目的にする「セラピー文化」の保守性の指摘も、「ヒューマニズム」に抱かれること=「人間主義」に「まつろう」ことが、最大公約数的な合理性として信仰されているからだと言えるのではないか。「人間管理」ツールとしての指摘に対しても、この社会が「人間」でなければ管理できないことの裏返しであろう。


ならば、それにすらなじめないものこそが真の「まつろわぬもの」なのではないのか。




そのことは、論者も最後に触れているが、その「人間主義」に対する不信の外部に立つものこそ「まつろわぬもの」の名にふさわしいのではないか。


すなわち、「ひきこもり」「無業者」などは、まさに「まつろわぬもの(服従しないもの)」として「顕現」しているのではないか。


あるいは、それらこそが「聖なるもの」として迎えられねばならないものなのではないだろうか。




最後にもう一度、冒頭に挙げたキーワードに戻るなら、「世俗化」とは、「人間主義」=「ヒューマニズム」の原理に基づいて「人間」という地平に平均化するプロセスだと言うことができるだろう。


だとすれば、その「人間」という地平に回収され得ない、「まつろう」ことができないものは、いったい何と呼ばれるべきなのだろうか。


ヒューマニズム」が生み出した「ヒューマニズム」の背面。


すべてを「失った」ものにまず必要なのは固有名だ。


――私はそれらを「テロリスト」と呼びたい。




ヒューマニズム」の論理の限界が生み出す当然の帰結こそが「テロリズム」であり、「テロリズム」とは「ヒューマニズム」の血を分けた兄弟なのだ。

*1:もちろん、発展拡大する「医療」が「エホバの証人」を「飲み込んだ」ように、いずれはそのテクノロジーが「人間主義」をも飲み込み、「まつろうもの」となる日が来るのだろうが