「価値中立性」への不信と「信念」のありか


「ま、いいんじゃない(大意)」とは言われたものの、なにかその態度がポストモダン的判断保留にしか見えない。
そして、ポストモダン的態度というのは常にある種の無自覚さに支えられている。あるいは、意図的な欺瞞に。その「無色透明」な姿勢は「自分が今存在している位置」を無視した地点に立っているようにみえる。


「中立」を「自称」する無自覚な政治的発言が常に左右両極のどちらかよりに分類できることを考えれば、あらゆる価値、信仰、信念体系への言及はその「決して外部には立ち得ない位置」が与えられるはずではないか。
政治的判断を取り除いた誠実さに基づいた外部の「観察者」的な態度こそが、「自称」ではない真の「中立」として提示されているのだが、それもまたおかしなものに見える。


「価値中立性」とは、その政治性を極限まで薄めた「紹介」的言説であると理解すれば、それはそれでその働きに意味を見いだすこともできるかもしれない。
しかし、それが届くのはやはり同じように、「中立」を「自称」する政治性に無自覚な人間という範囲に止まるのではないのか。
それは結局「自称、中立」の無自覚な態度を保存し、肥大化させ、また自らが寄りかかる価値、信仰、信念体系を無批判の聖域化して目をそらし、それが「中立」であるが故に批判不可能なものとして、あるいはあまりに基本的な概念だからという理由で祀り上げていることを棚に上げているのではないか。


それは、体のいい「良心的保守」とでも言うべきものなのではないのか。


「観察」することができる「位置」にいる「観察者」という態度の欺瞞性は、結局、現時点で「強者」の側にある価値体系への「馴致」をはかるものになってはいないか。――「強者」というよりも「生者」といった方が良いのか。


たぶん、僕が今持っているのは「死んだ人間の目線」なのだろう。


「人間」なんて大嫌いだ。神様と同じくらいに。




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副読本的な解説をいただいて少しは頭が整理できたのだが、「ただそのあたりを改めて細かく論じても、少しアートに興味(や疑問)をもっているだけの人にはピンとこないでしょうし、専門家には今更な話です。」というそのスタンスが、曰く言い難い自分の置かれた立場にとっては混乱の種だったのだな、と『美術手帳』2008年4月号で現代美術史を頭に入れながら、ようやく落としどころが見えた気がした。
ロクに知識も「現実」も知らないくせに「空気」だけはよく知っているという、どうしようもないこの自分の立ち位置からすれば、そもそもうまく受け取れる本ではなかったのだ。


あえて、その立場から新たに問題を指摘するなら、「少しアートに興味(や疑問)をもっているだけの人」をターゲットとして想定している割には、そのターゲットに決定的に不足している「専門家には今更な話」を割愛するという奇妙な二面作戦が、どっちつかずの印象となってあいまいさを形作っていたのではないか、ということがやはり気になった。「誰に読ませたいのか」が戦略的には明確になっているのに、戦術的に明確になっていない、とでも言うべきか。


「美術とは美術史である」*1という言葉どおり、それを美術と呼ぼうがアートと呼ぼうがビジネスと呼ぼうが、歴史的な流れを大まかにでも理解していないと、とうてい話にはついて行けないものであるし、実は作品を鑑賞すること自体も不可能になるものなのだ。


が、しかし、「自由」とか「自然」とかいう<アート的な振る舞い>=「価値中立性」という、目くらまし、ごまかしがあるがために、知識=歴史=権威なんてものはなくても大丈夫なものというイメージが権威の側から提示されることが常態化し、その流れの内に『アーティスト症候群』もあったのではないのか。


いっそのこと「芸能人アーティスト」の章を切り捨てればまだ良かったのかもしれない。そんな肉を切らせて骨を絶つようなマネをしたら、ターゲットの「少しアートに興味(や疑問)をもっているだけの人」は捕まえられなくなるのかもしれないし、商売上の問題として編集からストップがかかったかもしれないが。なんにせよ、いかんせん自分の<アート的>な「中途半端さ」が遺憾なく邪魔をしたせいで、<アート的なるもの>を「降りた」地平を読めなかったことは確かだ。


とかなんとかいいながらしつこくその「わからなさ」を追求するなら、さっきからおかしなカッコ表記をしている<アート>についてだ。
アートという言葉が、カッコ抜きでもカッコをつけても、大文字でも小文字でも、もはやそのどちらもが奇妙な立ち位置を確保している、すなわちそれぞれの文脈を保持しているがために、アートという言葉でその分岐する流れの源流、「問題のありか」を指し示すこと自体ができないことが、また自分にとっての読解の混乱の種になっていたのだと思う。これは自分の「道具」が不足しているということでもあるのだが。
大文字のアートのジャンル細分化にしてもそのことが影響しているのだろうし、そして小文字のアートに人が流れ込む原因もまたそれと同じ共通のものなのではないのか。


そしてそれを大野さんは「オンリーワン幻想」というキャッチ―なコピーで示していたのだとは思うが、僕からすればそのコピーは「キャッチ―」すぎて、小文字のアートと同じものに見えてしまった。「フミヤート」みたいに。
なぜなら、その「オンリーワン」という単語が、例のスマップの歌というマスコミ文脈的なものから引かれたものであるし、それが歌を離れて消費された様は、もうベタに小文字のアートとして機能していた。それを、大文字と小文字の足下へあるいは裏側へ撃ち込んでも、銀の弾丸とはなり得ないのではないのか。
そこにも、「専門家以外のライトなアート消費者」をターゲットにするための戦術が影を落としているのだと思う。そしてそれがまた、専門家でもないしライト消費者でもない中途半端な自分にとってはキャッチできない原因になったのだろう。


読者というのは贅沢なもので、内容がポップなものであると思えば思うほどその本に対してファストフードのようなサービスを求めてしまう。そのような客が、パンの間に肉を挟むのではなく、肉の間にパンを挟んだようなハンバーガーを出されたらすんなり食べられるだろうか。もちろん、それを正しいハンバーガーにして食べられる客もいるのだろうが。


改めて、著者個人の「降りる」ことで確立した信念から読み解けるものは、アートという言葉が「使えない」こと。そして、個人的心情のゆらぎが源流にあること。


なにをか個人的心情がネックになっているのだとすれば、それを「個性への病」という言葉で表現したい。

*1:これは「哲学とは哲学史である」にしても「宗教とは宗教史である」にしても同じことで、まだそっちならなんとかっていう。(せいぜい比較の問題ですが)