文字=コミュニケーションの擬似的同時性を形成するもの


「コミュニケーションの擬似的な同時性を形成する」


それが文字=テキストメディアの本来的な性質であって、どのようなツールが生まれたからどうだこうだという話ではない。


ブログには書き込み日の、掲示板には書き込み日時のそれぞれスタンプが付属するが、それも通りすがりの人間がたまたま頭から読んだときには意味を持たない。


文字はまったく同時的な現象として、書き手と読み手とに共有される。
読み手の裁量が優先される読み主体、読み主権のものだ。


その文脈を共有していることを「忘れて」しまっていることが、さまざまの「発見」の原因。


文字がもたらす同時性。
HTML時代。インターネットという文脈を通じて書き手と読み手は文脈化されていた。
掲示板時代。掲示板という文脈を通じて書き手と読み手は文脈化されていた。
ブログ時代。ブログというフォーマットが与えられ、トラックバック・コメントというより明示的な形に変化したリンクが書き手と読み手を文脈化した。その上、はてなでは「キーワードリンク」として単語単位ででも文脈が形成された。
動画時代。動画コメントという文脈を通じて書き手と読み手は文脈化されていた。




その上で、mixiの不気味さはどこにあるのか。
その文字にさかのぼる技術的な疑似同時性*1を、「友達」という心理的な概念で絡め取ったからにほかならない。
文字という文脈、あるいはSNSという文脈を共有しているから同時性が形成されている所を、「友達だからそこに同時に存在している」あるいは、「そこに同時に存在しているから友達だ」というトートロジー的な心理的な強迫感でもって、文脈化を計ったからに他ならない。


このブログで唯一、異常な数のコメントが寄せられる例の記事。

mixiの正体は、アムウェイだ!! - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060610/p1


その不気味さを揶揄した点が強迫的心情を揺るがしたからこそ、それを否定するためのコメントという行動を誘発した、といったところだろうか。
それにしてもそのコメントの数々は、「書き手と読み手がまったく同時に存在している」ことの良い例になっているのではないだろうか。
あるいは、文脈を共有していることを「忘れて」しまっていることの。

*1:あるいは疑似同質性