「自殺ボックス」化社会


ひさびさに芯を貫く鋭さに出会ったので引用。
あらかじめ、念のため付け加えておくが、これは引用記事への補足のようなものであり、非難でも批判でもない。

[間歇日記]世界Aの始末書: 硫化水素自殺対策に関する控えめな提案
http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2008/05/post_f939_1.html


>そうした自殺そのものが阻止・抑止できないのであれば、どうしたらよいのか? 本人が死のうとすることは避けられぬとした場合、最優先で考えるべきことは、無関係の人々が巻き添えになるのを防ぐことである。とすると、硫化水素で死にたがっている人々に、せめて他人を巻き込まぬよう、“安全に死んでもらう”方法を提供するしかあるまい。
>どうしても硫化水素で自殺したい人に対しては、「無関係の人を巻き添えにして殺したり障害を負わせたりするくらいなら、どうぞこの設備であなただけが安全に死んでください」というコンセプトの公共施設があってもいいのではなかろうか。これを“自殺ボックス”とでも名づけよう。


だが、ブクマコメントに言ったように、次のような前提は決定的にズレている。

気体の硫化水素を発生させて自殺しようとする場合、当然、本人はそれがたいへんな毒ガスであることを知っているわけである。(略)“死ぬ”というおのれの目的のためであれば、関係のない人がどうなろうとかまわんという思想がベースにある。要するに、自爆テロといささかも変わらん。


「自殺ボックス」というテロルの提案は実に「いい」。だが、毒ガスという手段でなければそれがテロルだと見なされない現状は、既に「自殺ボックス」化しているといえるのではないか。




それにしても、「自殺ボックス」という言葉は実に「いい」。これから使わせてもらいたいところだ。




とはいえ、次の記事は少々いただけない、か。

[間歇日記]世界Aの始末書: テロリストを「アホ」と呼んで、なにが悪いものか
http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2008/05/post_98ab.html


>ただたまたま本人も死んだというだけの些細なことを理由に、不特定多数の、生きたい、生きようとしている人々にテロを仕掛けたやつに、なんで同情せねばならんのだ。


というのなら、たまたま巻き添えで死んだというだけの人間になんで同情せねばならないのか。
ここで自殺しようとしている人間は、既に「不特定多数の、生きたい、生きようとしている人々」から完全に切り離されている。




これを「自殺ボックス」と言わずして何というのか。