「帰化」問題、あるいは「帰属」問題について

「外国人」が映し出す日本人の血族信仰 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080521/p1

上の記事の補足。
なんか自分が不勉強だったので、つい目新しい発言に見えたんだけれども、鄭大均という人はもうずっと同じことを言い続けている人のようだ。
下は2001年発売の著書。

Amazon.co.jp在日韓国人の終焉 (文春新書): 鄭 大均: 本
http://www.amazon.co.jp/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%84%AD-%E5%A4%A7%E5%9D%87/dp/4166601687


そして、内容はともかくとして彼への批判というのも既にネットでは見受けられる。

鄭大均教授に失望
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D23.htm


そこから拾える問題点としては、やはり「帰属」の問題ではなかろうか。
それも、「宣誓」という部分。「国家が個人に対して強制する帰属」という問題だ。

教授は「第一に今日の在日に広く見られるのは、外国籍を持ちながらも外国人意識に欠けるということである・・・」といっていますが、日本人から見ればとてもそうは思えません。在日韓国人(居留)民団を組織して活動をしている人が、どうして外国人意識が欠けると言えるのでしょうか。日本国籍を取得することに抵抗のある人が、「外国人意識に欠ける」というのはおかしいと思います。在日韓国人は強固な外国人意識の持ち主だと思います。


という部分からは、「日本人意識に欠ける」自分はどうしたらいいのだろうという地点から見て、何を以て「強固」と判定するのかという問題が浮かび上がる。
すなわち、「帰属」の問題とは、内心の問題、内省的な問題としてではなく、観察的、観測的な問題としてとらえるべきものだという考えだ。
言い換えれば、「帰属」とは「求めるもの」ではなく、「与えられるもの」だということか。
あるいは、「手に入れるもの」ではなく「授かるもの」。
これを逆説的に考えれば、「帰属を与えない/認めない」立場に立つことは、すなわちそれだけで「与えない/認めない側」に特権的政治性を担保することができるということだ。

日本人としては、国籍を安易に考えてもらいたくありません。本籍地が遠くて不便だからといって本籍を移したり、住民票を移すのとは訳が違うのです。自分が韓国人なのか、日本人なのかという問題です。自分は韓国人だが、生活上不便だから日本国籍を取得するという人は、決して日本人の社会に受け入れられることはないでしょう。


という部分からは、「国籍がある」という成文法的な事実と「社会に受け入れられる」という慣習法的な事実との間には「明確な違いがあるのだ」という信念が読み取れる。ここからは逆に、「社会的に受け入れているのだから、国籍などやらなくても良い」という発想も導けるだろう。
ここにも「受け入れてやる」というスタンスで、明確な差別を保持することができるロジックがある。
「帰属」とは、つまり「恭順」のことなのだろうか。
何ともコロニアルな発想であると思えるのだが、案外、これは不可避の問題なのか。

アメリカでは市民権を取るときは、「私は、私がかつて市民であった国への忠誠と連帯を断念し、放棄することをここに宣誓します」と誓約することを求められます。在日韓国人はそのような誓約ができるのでしょうか。


そして、なぜかアメリカの例を引用して説かれる「帰属」と「宣誓」の問題。
「宣誓」というものが何か一度、言質を取ったら、ことあるごとに突きつけられる天下御免の印籠のように考えられてる感があるが、実際、どうなのだろうか。
アメリカの帰化申請について少し調べてみた。

アメリカ移民法ニュース:帰化(市民権取得)手続きについて
http://news.jinken.com/archives/19474691.html


帰化 - US Immigration Lawyers, U.S. Immigration Attorneys, Green Card, H-1B Visa, Immigration Advocacy for Professionals, Visitors Families and Businesses - Immigration Law Associates, Chicago
http://www.immig-chicago.com/index.php?src=gendocs&ref=nat&category=Japanese%20Pages&PHPSESSID=c3040

8)忠誠の宣誓

アメリカ市民になるためには、忠誠を誓わなければならない。申請者は以下のことを誓うのである。

憲法を支持し、アメリカの法律に従う

●外国の忠誠、外国の称号を放棄する。(Foreign allegiance and or foreign title)

アメリカ軍事を支持し、必要なときにはアメリカ政府のために軍務を行なう。

ある例外としては、宗教信念の違いから軍務を行なうことに関して反対である申請者の場合には、移民局は修正された形で宣誓を行なうことを許可する。


確かに、「宣誓」というものが義務化されているようだ。
ただ、「軍務の放棄」が認められているのだが、こういう場合における「政治的に正しい態度」は、「その部分はアメリカの問題だから日本には関係ない」というものだろう。
だが、日本における「帰化」「帰属」の問題は、先に見たように、実は成文法的なものではないようである。
そうすると、「帰化」という入り口における「宣誓」とは、何か借金の証文のようなものとして扱われ、それ以後、返済が終わるまで取り立てられ続ける=「日本社会から受け入れられる」まで差別され続ける根拠のようになるのではないだろうか。


それに対して、「アメリカでは」、入り口での「宣誓」の後に、ちゃんと「出口」が用意されているのである。

「市民権の重層化と帰化行政」(重国籍の容認について)
http://www.kouenkai.org/ist/docf2/kd02.html


アメリカでは、憲法修正14条を定めた1868年以来、アメリカで生まれるか、帰化し、アメリカの管轄権に服する者は、アメリカ市民である。1868年の法律で「国籍の離脱がすべての者の自然かつ固有の権利」である旨を宣言し、1907年の国籍離脱法および1940年の国籍法により、他国への帰化、他国への忠誠の宣誓、他国の選挙への参加などの理由に基づく市民権の喪失の手続を定めていた。しかし、連邦最高裁は、1967年のAfroyim v.Rusk事件で[2]、アメリカ国民が他国の選挙に参加したことによるアメリカの市民権の剥奪を違憲とし、最終的には、1980年のVance v Terrazas事件により[3]、他国の国籍証明書の発行が他国への忠誠を意味するかどうかが争われ、アメリカ市民権を放棄する自発的な意思が証明されないかぎり、重国籍を容認する判例が確立した。今日、1986年に改正された移民国籍法349条により、アメリカの市民権を放棄する自発的な意図をもって他国に帰化などしないかぎり、アメリカの市民権を失うことはない。また、同法377条により、外国人がアメリカに帰化する際に出身国への忠誠を放棄する宣誓をアメリカ自体は課しているが、この忠誠の放棄を国籍放棄の意思表明とみなさない出身国の場合は、重国籍が認められるのである(Weissbrodt 1998: 329, 381-391; 高佐 2003:247-52; Aleinikoff 2000: 139, 147-150)。


さらに、慣習法的な「受け入れてやる」という差別意識に対しても成文法的に制約がかけられているのだ。

バーネット事件連邦最高裁判決
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk195a2.htm


判決要旨
1. 州の行為に対して修正第14条が(権利の)保障をしているが、そのなかには州教育委員会の行為が含まれる。


2. 国旗に敬礼し忠誠を誓うことを−右腕を伸ばして掌を上にあげ、「星条旗星条旗が表象する共和国、すべての国民に自由と正義をもたらす不可分の国家に忠誠を誓います。」と宣誓することによって−公立学校の子どもたちに強制する州の行為は、修正第1条及び第14条に違反する。
 同意することを拒否したために退学となり、それによる欠席は「違法欠席」となり、子どもも両親または後見人も処罰されたが、それは修正第1条及び第14条に違反する。


3. 子どもたちが宗教的理由で同意を拒否したことは、本件の判断を左右しない。また、彼らの信仰が真摯であるかどうかの詮索も必要ではない。


4. 連邦憲法の下では、本件で用いられているような強制は「国家的統一」を達成する手段としては認められない。


5. ゴビティス判決(合衆国判例集310-586)は棄却。ハミルトン判決(合衆国判例集293-245)は事案が異なる。
 「合衆国控訴審裁判所判例集」47巻追加251は、原判決を維持。
 公立学校の子どもたちにアメリカの国旗に敬礼することを求めるウェスト・ヴァージニア州教育委員会の規程の効力を差し止めた三人の判事の地裁判決に対する上告。
 上告人の弁護にウェスト・ヴァージニアの司法次官補のホルト・ウッドデル氏及びイラ・ゼイ・パートロウ氏
 被上告人弁護にヘイドン・シー・コヴイントン氏
 アメリカ法律協会の権利事典委員会を代表して次の人々(略)、及びアメリカ自由人権協会を代表して次の人々(略)による法廷助言者の準備書面が提出され、上告棄却を主張。そして米国在郷軍人会連盟を代表してロルフ・ビー・グレッグ氏が原判決の破棄を主張。


この判例でで最も重要なのは、まちがいなく「4. 連邦憲法の下では、本件で用いられているような強制は「国家的統一」を達成する手段としては認められない。」であろう。
すなわち、「アメリカでは」、「帰属」とは内心の問題であり、国家が強制するものではないと明確に成文法化されているということだ。




ここから確実にわかることは、在日韓国・朝鮮人日本国籍への帰化問題について、アメリカ国籍への帰化を参考例として持ち出すことは、法的な論理的整合性を持たないということである。




だが、もちろん、この「美しい国日本」では、成文法というものについて実に恣意的にその価値をおとしめることが「許されている」ので、おそらく上記のようなアメリカの法的論理整合性は「日本の風土に合わない」という「理由」で、一笑に付されるのだろう。
ああ、「美しい国日本」万歳!