「自殺を止める」ことはできるか? 旧:<追記>乱暴なブクマへの丁寧なお返事に対するとりあえずの短いお返事

宗教的、倫理的判断とは - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - モヒカン族
http://mohican.g.hatena.ne.jp/summercontrail/20080525/rinri

自殺を「思いとどまらせる」、っていう発想がダメ。



「思い」くらいで何とかなるなら、自殺など考えない。



大切なのは、エリザベス・キューブラ・ロスの「分析」ではなく、実践。



たとえば、ネットの暴れん坊≒内省的自我の暴走をネット上だけで更正させることができるのかどうかという仮定の話ならどうだろうか?



それが日々の生活に原因を持つものだとしたら、いくらネット上で=言葉で「大切さ」を説かれても何の役にも立たない。



インターネットは、言葉は、絶望的なツールとしてまず考えるべき。



力なき言葉は「跳躍」しない。



<追記>という名目の声の大きい独り言


そもそも自殺を「我執」と表現したのが、気に入らなかった。
もしかすると、「我執」が「悪」だと認識されていると思う自分が――自分が「我執が否定されている」と「認識している」ことが、ブクマでの反応の原因か。
……仏教用語は嫌いなんだよな、そもそも、、、。
中身がころころいい加減に都合よく入れ替わるくせに、「空気」で共有されてるから……


「宗教的、倫理的判断」ねぇ……、まあ「宗教」的かもしれないけど、倫理ねぇ……まだそこまでああしろこうしろ的な答えになってないから、哲学という方が近いかなぁ。
個人的には、倫理は道徳とセットで、宗教は哲学とセット、という認識。セットというのは同義語というくらいの感覚。


「その人の命はその人の所有物で、どう処分しようと自由」というのも、何か極端な表現だと思うなぁ。というか、これはリベラリズム自由主義)的価値観であってまったく僕のものではないように思える。いや、それはネオリベだ、っていっとこうかなわかりやすく。
リベラルという日本語がホント「使えない」ので困る。


だから、「テロリスト」を名乗ろうかなと思い出したわけなのだけれど。
ホモ・サケル」なんてぬるすぎて「跳躍」する前に、崩れ落ちてるように思うのですよ。


「少なくとも日本の現行法では、(以下ry」って、……え〜〜〜よく読んだら法律論で自殺が語られてて引いた。うへえって感じ。あははははははは、すでに「人間」からは「自殺する権利すら剥奪されている」のか!!すごい発想だな、いやヒドイ発想だな。
なんていうかそれこそが、「自殺ボックス」的発想だと思えるのですが。


「自分なりの特定の宗教的・倫理的判断」については、うんまあ、宗教概念において「教団的なもの」が前景化しがちなのはよくわかる。でも、「宗教教団」とスピリチュアリティのような「薄い」ものまで含めた「宗教性」を足して、「宗教」というカッコ付きの表現があるので、おせっかいながらご紹介まで。


「こうした問題についてはまず専門家に傾聴するべきだ」というのも、生きていればいくらでもそれに直面する可能性がある自殺という問題に関して、「専門家に!」というのは、喜劇的な悲劇に見えます。まあ、とりあえずの危険がなければ「まず傾聴」という学習も確かに必要でしょう。

〈良いこと・悪いこと〉という基準以外に、〈そのことについてその人を非難できるか〉という基準が別個に存在しうることにも留意していただければと思います。悪いことかどうか、ということと、その人を非難できるかどうか、ということは違います。「違法性」と「責任」というキーワードが思考の整理には有用です。

ああ、なんか「○○教原理主義者」に説教をする「欧米知識人」みたいな構図だ。
それが一番うさんくさいんだってヴァ!!しかも、「違法性」かYO!!ついでに、「責任」かYO!!冗談抜きの「自殺ボックス」だ。
――この単語もまたキッチュすぎてアレなので、せめて「それなんて<生権力>?」っていっておくか。


「二重に殺している」については、まず、殺す、と「殺す」の違いを念頭に置いてください。前者は意思表明(ベタ)で、後者は概念提起(メタ)です。「」が付いていることで、その言葉が対象からズレた位置に置かれているのだと言うことです。要するに、別に僕はsummercontraiさんが誰かを殺したとは言ってません。ただ、「殺した」ように見えたのです。メタ的、形而上的に。
大体ヒドイ話じゃないですか。「自殺する権利」すら「奪い取る」なんて。なんでそんなことが「自明」(あなたにとって自明、という意味のメタ表現を加えるためのカッコが付いている表現)なのかが疑問です。

映画の中で本人(引用注:被害者の元女性ボクサー)を殺したのは、善意ではなく、〈社会的に有用な人間、能力の優れた人間でなければ生きている意味がない〉というドグマによる、自分という人間に対する究極の蔑視です。

その意見には賛成します。
しかし、そこまで「人間性」を「人権」を奪われた人間からさらに「自殺」まで奪い取ることが、それを「法律」という「暴力」によって奪い取ることが、正当化できるとは思えません。
聖書を引かれているというだけからの判断ですが、summercontraiさんはクリスチャンなのですか?
だとすれば、の話ですが、そこからの判断をこそ「ドグマ」と言うべきでしょう。


「人間は無力でも、社会的にも地位が低くても、ダメ人間でも、他人に迷惑をかけていても、それでも生きていていいのです。」
その考えが優しさから出ていることは十分にわかりますが、「それでも」、僕は「なぜ他人に迷惑をかけてでも死ぬことは許されないのだろうか」と思うのです。
僕が学んだ「あの世万歳」的な浄土仏教でも自殺は否定されていますけれどもね。(俗流解釈だとしての否定)
というわけで、僕は仏教系の人間でしたが、今はそれにすら疑いを抱く者です。


少し戻って、「悪いことだとはしていますが、非難できない」。
「非難ができない」という点では一致しています。
だとすれば残りは、「悪い」の部分が、「何」によって悪いと判断されているのか、という点です。


政治的、法律的なものをなにか中立的存在として判断の根拠にされているのだとしたら、それが僕が感じたあなたへの違和感の源泉です。




なんだかんだで、違う意見の人と意見を交わすというのはおもしろい。ありがとうございます。