思考の余白<『アーティスト症候群』への書き込みより>

共犯者捜しのキーワードとしての「アート」「アーティスト」
共犯者捜し=協力者捜し=「交換相手」=双方向利益関係=ビジネス的WIN・WIN関係
 その一つとしての「自分探し」→「探される自分」=社会的関係性=「交換原資」探し
  「アート」「アーティスト」には、権威・権力・関係性・接続可能性があると思われている
しかし、現状では交換サイクルからの「裏切り者=利益収奪的・自分与えビジネス」が多いから「若者の自分探し」も怪しく見える?


若者の連帯嫌い、オヤジの連帯嫌い
「感情表出への共感」または「嫌悪」は、関係性への志向の個人差と、関係性への可能性の有無、それに対する信仰の有無の違いである。


若者の「自意識過剰」=他者意識希薄
 つまり、自らの「正統性」を保証する共犯者の絶対数が不足している。
  なぜ、不足しているのかという問題。
   「交換原資」の不足?交換サイクルへの参加不足?社会=他人関係の不足


あるカテゴリの「曖昧さ」「ゆるさ」とは
拡大することで陣地を広げようとしたが、それが統括概念として機能せず、個々の主張に一貫性がない、あるいはまだ未整理のまま「つながり」だけが引きずられている状況
 「落としどころ」が不明確なままであることが原因か
  それが最大の問題。目的・目標・一応のメド・オチを最初に設定しておくべき


「承認欲求」というシャカイ的単語は要取り扱い注意
 相手を無条件で子供扱い=非人間化することで、相対的に自分に対して大人=人間であるという権威=人権を付加できるマジックワードとして機能する面がある。そして、肝心の問題=当人が感じる劣等感から目をそらしてしまう。個人の内面の問題だとして。この単語を口にしたいなら、シャカイと社会の接点を探すべき。
  ただし基本的には、「取り残された人間」への気づきではある。否定的ではあるが。


「制度化された共犯関係への信頼」=信念体系=帰属感?
 「アーティスト」は「孤独」ではない
 「血統」への帰属
  あるいは、投資交換経済への参加意識


日本語の「作家」と英語のアーティストの最大の違いは、その言葉が原義的に意味するものが集団か、個人かという点。
 家=一族=血族=画壇 「○○家」
  職人にしても同じ=職人組合の正統性・権威


アートの「自分探し」
唐突に出てくるこの「自分探し」という言葉が、いじみくも文脈に沿って、「自分探し」の性質のなんたるかを明らかにしてくれている。すなわち、その後ろにあるものは、哲学的な問い、内省的な自我、精神的なものなのだ。
  容易に物理化し得ない問い。それが「自分探し」
   だが「生きていかねばならない」以上、どこかでその問いを停止し、「わかりやすい答え」を手にしなければ=信念体系を獲得しなければならない。=交換サイクルに参加するためには信仰が必要。
    これはつまり、ある意味、物理的身体が制約となって問いが放棄されるということである。
     「内省的=自閉的な問い」を捨て、「外部の答え」を信頼して獲得しなければならない。
       「自分探し批判」として信念体系の獲得自体を否定することは原理的にできない。
       信仰の獲得こそが、自分探しの「終わり」なのだから。


近代化=産業構造の変化によって生み出された個人が、あらわれたことが、アートの個人化の源泉?


血統主義
 年寄りのケツ持ちをして喜ばせて、死ぬ前に勲章をもらうもの。集団主義
「個性への病」 「個性」への病 <個性>への病
 一個の存在という意味での個性=「絶対的個性」・・・テロリズム人間性へつながる
                         自己の存在(自己への疑い)こそが大前提
 突出した才能という意味での個性=「相対的個性」・・・社会的関係性にもとづく
                          他者の存在(他者への信頼)が大前提
この二つを明確に区別する言葉がないことが、混乱の源。
★自己とは原理的に疑うもの?他者こそが信じるべきもの?
    「自信」とは、他者からの認知への信頼ではないのか。内省的ではなく、関係的。
    「根拠のない〜〜」とは、その他者への信頼がその人間にとって「基本的すぎて=あたりまえすぎて」認知できない状態?
     その個人が「傷ついていない」証拠。あるいは、「回復した」証拠。


 絶対的と相対的がそもそも混同されているから、どちらもが?確固たる基軸とならず、間をさまようことになる。
  のではなく、「社会的関係性」「外部の答え」「他者への信頼」を獲得する「相対的個性」を軸にしている近代社会においては後者のみしか認められる余地はない。
   前者は、いわばテロリスト=<非−人間>=ホモ・サケル=二重の死者


個人、あるいは「個性」の象徴としてのアーティスト
 それが成立している様は、相対的=社会的にであるのだが、「個性」という「共通項」を通じて、一個の存在という自分=絶対的個性とつながってしまう。


職業=役割名
役割=社会的立場が獲得され、自らの絶対的個性に自信があれば、「個性」の「理想化」は必要ないと言うこと
  あるいは、相対的個性として獲得された安定


「役割を演じることへの不満」への疑問
 なぜこの不満への不満が生まれるのかこそが問題。
  社会的関係性への信頼の強度の多寡が、その「個性」を求める「ゆらぎ」=「病」の原因。


「理想のアーティスト」
 「私利私欲を捨てた」存在=経済原理から切り離された存在=絶対的個性=非社会的・脱社会的
   理想(イマジナリー)としての超越的人間=近代原理において存在が困難なもの
つまり、テロリストこそがアーティストの理想像。


「伝統芸の継承者」
 ある種の共犯関係・共依存関係・交換関係が成立していることを意味する。
  ある意味、血統化であり、すなわち社会化。
「自分の世界」があるのが、なぜ「偉い」のか
 「個性」概念のねじれを通じた自己陶酔?自己実現願望?
  絶対的個性の理想化のあらわれ。絶対的個性が相対的に認知されることが「究極の個性」
   他者への信頼を必要としない絶対的個性=他者に対する絶対的暴力が、称賛されること=国家に等しい権力の獲得への欲望
    コロニアルな願望?一人の帝国=個人帝国?「個性」の帝国?


共犯関係の例
 ○○があれば、○○の歌があればがんばれる、みたいな共感関係。


芸能人アート批判の原理
 「相対的個性(突出した才能)がないことは、絶対的個性があることを意味しない」という認知からの苛立ち
  なぜなら、それは本来あり得ないから。
   ちがうちがう、「芸能人という社会的関係性の強度がアートという相対的個性の領域をも抱き込んでいる事実」への羨望。
どこまでいっても他者からの認知の問題。
  後は、「説明的に過ぎる」とか。「技術であって発想ではない」とか。など細部の問題。


アートというジャンルにおける評価の「甘さ」
社会/会社(一般的社会関係=人間関係)からの距離がある(離れている)からこそ=<非−人間>に近いものだからこそ+共犯関係的なアート権威(ビジネス)+拡大する曖昧さ


「妙な自信とナルシズムと、相反するほんの少しの自信のなさ」
 絶対的個性の相対的個性への接続願望と、<非−人間>=テロリストであることのゆらぎ。
  社会化、承認欲求・・・=人権 
アートへの投資とは、ならば人権の譲渡=「人道的介入」
    投資家は、セキュリティを求めるなら「テロリスト」をこそ「買う」べき。
    そうしてこそ、投資が本当に安定をもたらすだろう


アートとお宝の違い
 「作品をつくる人より、作品を所有している人のほうが人口比として圧倒的に多い」
  ということは、
 お宝が、消費市場を前提にしたものだから。確固として存在し、かつ幅広い。
  既に「商品」化されたもの=交換されたものとしての実績=確かさがお宝にはある。


双方に共通する「不完全さ」とは
 交換における、「跳躍の存在」を意味する証拠。「他者への信頼」のゆらぎ
  信頼の共同体が=共犯者がいるかどうか=確実に共謀する他者がいるかどうか


お宝がいくらになるのか
 投機対象としてのアート


「お宝」とは、商品化された後のアート
 商品とは何か?金である。金とは何か?信頼である。
 「只の物体がお金に換算される不思議」とは、その交換が信頼に基づいているという事実への「疑い」。
   =他者への信頼という基本的事実への根源的懐疑。


「アートの価値は多様、答えは一つではないという大義名分」
 アートがまだ信頼の枠を、飛び越えていない証拠。あるいは、その跳躍の存在を示すきざしがアート。
  交換対象が他者であることの証明としての大義名分=他者=絶対的他者=圧倒的多数の他者


「お宝」の価値が決まっているのは
 交換されたこと、交換されるものだという「事実」への信頼に基づいている


「「誰ピカ」の審査員の「知」はよく見えないが、鑑定士の「知」は共有可能である」
  一番わかりやすく、一番広く共有されている言語ゲーム、「お金」に翻訳されているから。
   交換・信頼・跳躍という哲学的領域に踏み込まないで済むから。


「鑑定」は可能だ
 商品知識とは、お金に翻訳するために準備された前提条件のようなもの。それを「見る目」=知識が培われることは十分可能。
  「大事に使って」「飾って楽しまれたら」
  「お金」という「大きな信頼」を背景にしているからこそ、この言葉が共有できる。
  アートであれば、それこそ商品化されない限り、どこまでいってもごく私的な、私に対する信頼しかありえない。
   アートとは、第一に信頼を個人レベルまで切り詰めたもの。


「アートとアートでないものの違い」
 単純に言えば、交換後/交換前のちがい。または、交換可能/交換不可能の違い。


「職人」
 職人に個性はない。本来、個性的であることは許されない。
 しかし、個性を求めて職人にあこがれる人間=老人=若者の根本的誤解
   職人にあこがれる人間の共通性とはなにか?
    社会性から逸脱した、社会性を獲得していない、社会性に対する問題を抱えている、社会関係からドロップアウトしたものが夢見る「職業的個性人」=「職人」になっている
だがまた、現在その技術が希少化することで、あるいはものづくり神話におけるアイドル化されることで、職人の個人名が前景化しつつあり、職人自身も「世に知られたい」「表に出たい」「他人に評価されたい」という意識が一般化している。
    もちろん、ナショナリズムという経路も十分にふとくある。


アートにおける「作品は、作家の手ワザの巧みさをアピールするものではなく、発想の巧みさをアピールするもの」
  職人仕事はこれが本来、逆転している。
   しかし、職人が独立するとなると、アート的な発想が必要になる。
   が、なによりまず、技術信仰=イデオロギーが優先され、結果、没個性化していく。職人セカイ。
   あるいは、職人組合の空気によって、同調化される。


職人の「遊び心」とは
 そういう名目の「古典的教養」「サロン的教養」に基づいている。日展院展的なもの
  職人セカイの文化的教養「常識」=「知」を知らないと、それこそ鼻で笑われる。


「芸術は、個人の自由な創造の領域。芸術家は自由な表現の開拓者。」
 個性の象徴としてのアート=芸術
  二つの個性の混乱。個性への病


失敗した「アートアンドクラフト」と投資化している「アート」
 という背景の上に、廃墟の上に?
この20年近く続く不景気のさなかで、「お高い」伝統工芸を売ろうという狂気の沙汰。


「職人の作ったモノ=生活用品」
 実用品、実用性
  その本来の意味は現実性=古典性=常識性=一般性=既に普及しているものを繰り返すこと
   現在の職人技イデオロギーの混乱と欠点は、かつて普及していたもの=現在廃れているもの=もはや普及してもないものを作ることで、もう一度「正しいセカイ」を復活させようとしている点。
    少数派のイデオロギーだという意味で、好むと好まざると似かかわらずアートに近づいている。


職人は匿名で、アーティストは固有名?
 もはやその構図も崩れている。
  自分が評価されたいという老人が若者をダシにし、あるいは自分が評価されたい若者=バカ者が職人仕事=職人養成学校にダマされて転がされている。
  今や、職人は個性の象徴として売られているし、個性として「売らなければならない」状況
  既にあるものを同じように繰り返すことを尊ぶという民芸的価値観は、世間から失われている。
   「新しい職人技」という倒錯した職人観の時代


職人=仕事人
 社会的存在=経済的主体=経済的関係性の確保=商品としての価値=流通性=交換可能性


アート=自由
 自由を基礎づけている前提としての制約を見ないことによるイメージの過剰化。
 「社会に埋没したくない」「社会の歯車になりたくない」=匿名への拒否=固有名を持ちたい?
  いや、その本質にあるのは、社会性の獲得過程にあるゆらぎではないのか。
 「世間知らずのナイーブな中学生」
  直接的接触によって、世間を教える人間が、大人がいなくなった世間でそれをいうのは卑怯。
   他人との接触が少なくなったことで、社会的関係性を感じる機械自体が減少していることからすれば、会社員になりたがる人間が多い方がある意味「不思議」。
   この当たり前を認知できないからこそ、「自由」の存在を、「独我論的自由」を信じてしまう。
    あるいは、そのイメージこそがまた利用されて、それを求める人間に売りさばかれる商品となっている


「社会にどっしり腰を据えてモノを作り、それで着実に生活の糧を得ている職人」
 固定観念としての職人像=イマジナリーな職人。
  もはや、職人にも安定はない。


「家・士・師」のヒエラルキー
 家:社会の上層 士:社会の中層 師:社会の下層


「手作りのモノの良さを見直そうという風潮」
  これが既にアート的文脈。アートアンドクラフト、民芸運動と同じ。既に失敗した道。
  希少化することでアート化している。仕事人ブーム?左官ブーム、庭師ブーム?
   手作りであれば何でも良いというわけでない、のが最大の欺瞞。
    最高級をまねるニセモノ=プラスチックの反乱によって、下手なものはハナから否定される。
同時に、本物の最高級の基準がまったく「共有されておらず」、「本物らしさ」がウケる。
     ある種の技術階層の固定化が起きているといえる?技術者の下層固定?
     プア・クラフトマンシップ


「職人ってカッコイイ」というイメージ
 現実的に既にアートと同じ地平にある。だから消費の対象になる。『コンフォルト』という建築雑誌が良い例。
 継承者不足をイメージ操作、イデオロギー操作によって補おうという、決してそこに経済的支援をせず、時間と金を奪いつつ、「自分次第」「自己責任」の名の下で若者の生きる道=希望を狭めている
 「悪い意図ではない。」というが、いや、最悪である。
  いったい何が不足しているのか。継承者ではない。需要そのものがないから、後継者がいないのである。
  今の職人ブームは、根本的的に、経済的に、常識的に考えて、狂っている。
   にもかかわらず、イデオロギー的に流行るのはなぜか?


「アーティスト」は憧れで「職人」は覚悟?
 今現在アートで食ってる人間からすれば、それは覚悟以外の何者でもないと思う
 それはさておき
 両者の違いはそのような心理的、主観的な「思い入れ」の差というよりも、経済との結びつきの差からくる仕事=職業としての具体性の差。だが、実際にはそれほど差はない。もちろん、悪い意味で。
  もちろん、最初から独立が必要なアートと、最初は他人の集団の基で修行する職人、という社会化レベルの基本的な違いがあることも確かか。
   ならばなおさら、それを主観的な差異に還元するのは、心理主義的に過ぎるのではないか。


「職人修行のほうが厳しく辛いというイメージ」
 具体的、明示的な生活上の困難。また、直接的、確実に避けられない他人との接触
  職人に「憧れる」人間=学生が、就職の現場でイメージとのギャップに「驚く」のは、既に職人がアーティストと同じ文脈で消費されているというなによりの証拠。


よくわからない「イメージの中身」
 個性への病から生じる順序の逆転、前もって自称するものと、後から自称するものとの具体性の違い。
  つまり、いきなり「なる」ものでも、いきなり「なれる」ものでもないものを、社会化のプロセスを通り越して前景化してしまっていることが問題。


アーティスト、クリエイター、職人
 職業意識、仕事観の濃度差。志向のスペクトラム
  とはいえ、アートと職人は既にウロボロス化している
   クリエイターはそれが仕事として確立した後から自称するものであって、そこがアーティストと決定的に異なる点


「職人にまつわる地味なイメージ」
 なぜ地味なのか、暗いのか。
匿名性、没個性。経済的な見通しの暗さ。人間関係の閉鎖性。慣習的、制度的上下関係。


「クリエイティブ女子」
 「肩の力が抜けている」のは、男の肩車に乗っているから。
  男女のギャップは、未だにお嫁さんというジェンダーロールに裏打ちされている
   旦那が稼いでくれるから、ワタシはステキに自分らしく!
   乗っかることがあまりにも自明なので、女性クリエイターあるいは、女性アーティストは「軽い」のではないか。
    アート的なるものにおけるジェンダー非対称性。
    男の労働力に依存することを前提にした「明るさ」


「神秘的なイメージ」
 交換以前の世界を体現してみせる、ある種の宗教的、哲学的存在としてのアーティスト。


「アートの文脈」
 投資的経済の領域


「癒しのヘアメイク」
 美容院とは一種の風俗産業なのだ。「コミュニケーションの交換を楽しむ」ことが大前提なのだ。
  つまり、交換するための原資=コミュニケーションへの欲求、能力、経験がなければ容易に近づけない所


アートと「アート」は簡単には見分けが付かない
 それを概念的、歴史的にとらえている限りは
  しかし、経済=交換という視点に立てば、もう少しは明確に区分できるはず。


欧米作家と日本の若手アーティストの経済格差
 欧米には「自分でアートを買う」習慣がある=投資行為の普及
  日本のアートは血統主義。舶来主義。
   それと、アーティスト本来の単独性=個性への病がうむ差異。


「でも、やるんだよ!」
 個性の自家発電。独我論。内省的自我の過剰。


客の沈黙の理由=「最低限の美術史的な知識」がない=どの程度必要なのかわからない
 そもそも見ず知らずの他人と会話をはじめてそれを楽しむようなコミュニケーション空間が日本にはない
  また、アートにおいて無条件の前提となっている歴史的な知識の不足が、敷居を上げている
   失礼に当たるのではないかという遠慮。
    無知の自覚が観客の沈黙を生み、アート批評の特権化にもつながる


「何でもいいから」
 客からの悪口を直に聞いてもいいのかという問題。


アートは「視線の更新」
 「アート=批評」だというなら、感想とは「批評」に対するメタ批評を要求していることになる。
  自らベタ批評すらできない大多数の人間に対して。


アートでしかできない「思想」
 表現という手段は人間総体の問題に通じるのであって、手段に固有の思想という発想が独我論


「あらゆるものがアート」な世界とは
 リヴァイアサンの顕現。剥き出しの暴力。
  交換以前、信頼以前の世界。構築されていた価値観が転倒し、社会が崩壊するきざしにもなる


「アート革命」幻想=民衆蜂起<理想>への期待
 観念論的アートの限界。「私という思想」への不信。不完全な思想が「答え」ではなく「代替案」に止まっていた。
確信のなさ。「信じられなさ」。
 問いが問いのままにあり、答え=信仰の対象にならなかった、つながらなかった
    「信じること」こそ、交換の原資
     商品化、経済化、社会化への第一歩


どっちつかず
 信仰の狭間。信じ切れない状態。自分への不信。
  自分への批判=不信に対するメタ批判という解答


「「特別」な人である芸術家」という個性への病
突出した能力としての個性=相対的個性=比較されることでのみ獲得できる個性=獲得できない可能性もある個性
   それの対が、存在としての個性=絶対的個性=あらゆる行為がそもそも特殊性を帯びるゆらぎのなさ


信頼
基本的信頼=原初的信頼
子供が電車に向かって手を振るようなもの=手を振ってくれると信じている
コミュニケーションの根本原理、つまりはあらゆる交換の原資
 これが破壊された後、唯一残された実存的「信念」が、「自分が生きている」ということ。


個性重視の風潮
 個性への病を煽るもの
 その正体は、突出しなければ個性ではないという能力主義、スキル主義


「正真正銘の「自分流」」
 絶対的個性の見地からの正論


「早く結果が欲しい」
 残された時間、体感時間の世代間格差。
  「明日があるさ」から「即戦力・成果主義格差社会
    いつ殺されるかわからない状況


「ちょっと頑張れば手が届きそう」
 相対的個性を絶対的個性で埋め合わせようとしている
  個性への病=全て個性という日本語がもつ犯罪的あいまいさが原因


交換←→実存
 相対性=交換:絶対性=実存


「自然体」
 「自然体」を表現する=「養殖不思議ちゃん」問題
 自然体=感覚←→言語=論理
 アピール=受け入れられることを前提とした「共感主義」。
分析を通じた認知=批評的理解ではなく、共感を通じた共感、共感そのものが目的。
  これも、相対的個性を絶対的個性で埋め合わせようとしている


蜷川実花
 芸能人アーティストで語られてしかるべき、とびきりの上げ底の人物
  世界的演出家、蜷川幸雄の長女


「女性的な感性」=「自然体」
 ジェンダーロールであるが、批判的思考をもたないが故に、それの継続が可能
  アートと「アート」の境界は、思考か感覚か、分析か共感かにありそうでもある
   サイモン=バロン=コーエンにご登場願いたいところだ


美術手帖』あるいはライフハックとしてのアート術
  2008年3月号 いま、アートを買うということ 〜アートの「価値」の新しい活用術〜
  2008年2月号 展覧会のつくりかた 〜アーティストの基礎知識〜
  2007年2月号 職業は「アーティスト」〜アーティストになる基礎知識Part2
  2006年1月号 アートの授業! “表現&制作から鑑賞&マネージメントまで”
  2005年2月号 「アーティスト」になる基礎知識
  2005年1月号 プロが読んでる美術の本 アートブックガイド2005
  2003年7月号 アートの仕事がしたい  ボランティアからスペシャリストまで
  2002年5月号 特集1・アートを知るブック&ウェブガイド 特集2・大竹伸朗の本
  2001年3月号 日本の美術と教育
  2001年5月号 正しいアートの買い方入門

  ライフハックに「従える」時点で、批判能力=アートの最低限の基礎能力がないことの証明?


信じるという単語を、宗教から解放しなければならない。