「主体」のゾンビ、マルチチュード

マルチチュードとは - はてなダイアリー
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Multitude。マルティテュード、ムルチチュードとも読まれる。なお、ラテン語 multitudo は「多数」と「民衆」の両方の意味で使われる。

群衆=多数性、多数者などと訳される、哲学・政治学の概念。政治哲学者ホッブズ(主著『リヴァイアサン』)が、社会契約を結んで「国民」になる前の数多くの(まとまりのない)人びとという意味で使ったことばである。

特に近年イタリアの思想家・革命家アントニオ・ネグリが新たなる歴史の「変革主体」として位置づけたことで知られている。

ネグリマイケル・ハートによる『<帝国>』・『マルチチュード』および彼らの諸著作では、「主体の多様性」、「絶対的に差異化された集合体」「欲望を表現し、世界を変えようとする装置を体現するもの」などの意味を含む。一つの勢力でありながら、多様性を失わない、また多様性を失うことも求められないような多数者のことである。ネグリとハートによれば、マルチチュードは「統一性/多様性」や「同一性/差異性」という矛盾にとらわれない存在であり、統一されていながら多様性を失わない、また、共通性を持ちながらそれぞれの差異を失わない存在である。それが同一性・統一性を求められた(または差異性・多様性を無視された)「人民」などのこれまでの革命主体との違いであるという。

まあ要するに(複数の)革命主体であり変革主体であり、<帝国>に対抗する存在と位置づけられる。


まあ、この説明が正しいのかどうかという大問題をさておく時点で与太なんだが、どう考えてもこれはあり得ないなあ、と。
なんでこんなものを今時思いつき、ある程度?支持されてる?のかが疑問だ。
まあ、ヨーロッパには社会運動というものが「生き残って」いることがその背景にあるのか、やはり。
逆に言えば、日本にいる人間でこんなものをもてはやすのがいたら、それはアホの一言に尽きる。
つまりは、これは「政治的主体」なる概念の残滓なのか。
「主体」のゾンビ。


「政治的主体」であることを禁止され剥奪され抑圧され、むしろ積極的に放棄している「政治への放棄」を生きる日本人の中でマルチチュードを褒めそやすようなのがいたら、それは「スピリチュアルカウンセリング」を信じているのと何ら変わらない。