「センスを磨く」という発想の間違い/あるいは「アイデアを磨く」という発想の間違い

もっと「センスを磨け」だの、もっと「アイデアを磨かないと」という考えや言葉は、それこそ世の中全体にまき散らされているわけだが、実際の所、その発想は根本的に間違っている。


要は、勇気がないんでしょ。 要は、その考えがあたかも「センス」や「アイデア」といったものをなにか「一個の固定的、特定的な能力」であるとして考えている点が、大きな間違いなのである。


結論から言えば、そんなモノはない。


個別、独立、自律的な能力としての「センス」や「アイデア」なんてものは存在しない。


それは、「収集力」「編集力」「発信速度」という三つの力が一つに合わさって形作られた何らかの結果なのだ。


よりわかりやすく言えば、「圧倒的な情報収集量」「多彩な情報編集方法」「神速の情報発信速度」ということになる。


他人の「センス」や「アイデア」が面白いと感じられるのは、ここからすれば当然のことで、自分が経験したことのないもの、自分が見ることも聞くこともできなかったものが、他人の中にあるからこそ想像もつかないような「新しい」ものが他人から出てくるのである。


そして結局の所、「収集力」「編集力」「発信速度」という三つの力を訓練するのに必要なのは、時間だ。


「収集量」の大小は時間的蓄積によって左右され、「編集力」の高低は知識・学習の量に左右され、「発信速度」は経験的反復によって左右される。


「センス」や「アイデア」というものを一個の独立した能力であるととらえている間は、往々にしてこのいずれかが欠けてしまい、量が少なければ「つまらない」と言われ、編集力が低ければ「何が言いたいんだ」と言われ、速度が遅ければ「もういい」ということになり機会自体を失うことにもなる。


つまり、それは時間的・歴史的な蓄積以外の何物でもないのであり、「ちょっとセンスを磨きに○○へ行った」くらいのことでは変化の起きようがないものなのだ。


そうすると必然的に、もう一つの間違った考えを見つけることができる。


「アイデア」や「センス」と同じくらい貴重な価値としてあがめられる「オリジナル」というものが存在しないということだ。


「オリジナル」なんてものは、それこそ天地開闢、ビッグバンにさかのぼった所で見つけることなど不可能だ。


「アイデア」や「センス」にたいする最高の称賛が「オリジナル」「オリジナリティ」であるとするなら、時間的・歴史的な蓄積からうまれたそれが、真に「オリジナル」なものであるはずがない。


それは畢竟、どこかでみたモノ、どこかにあるモノ、どこかが違うモノでしかありえない。


だとすれば、「オリジナル」という言葉で示されているのは、それが元あった場所と今置かれている位置・場所・文脈の落差が、どれほど大きいのかということである。


だからこそ、「どこに何があるのか」という情報の「収集量」が重要なのであり、「何をどこに配置するのか」という情報の「編集力」が重要なのであり、「まさか今ここにコレがあるとは」という驚きを担保するための「発信速度」が重要なのである。


くれぐれも、「センス」や「アイデア」という単語に惑わされる事なかれ。