<非-主体>・<非-人間>・<テロリスト>

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上の本論の方では、「サバルタン=従属的地位」としてアキハバラ事件の犯人を「発見」してしまっている。
だからといってそれが悪意から出ているのではないことはわかる。
むしろ、「彼の内面=主体を理解しなければ」という善意からでた意見であることは間違いない。
だが、それこそがまさにサバルタンサバルタン性を形成するものなのだ。


「内なる主体」という神話的イメージについつい引きずられてしまいがちになるのは、よくわかる。
そのあまりに理想的な理想に、あまりに人間的な理想に、何かを見いだしたくなるのはよくわかる。
だが、そろろそ人類は「人間」という“はしか”の病床から、パラダイムから、抜け出すべきではないのか。

その「内なる主体性」を求める態度にこそ、サバルタンやテロリストが宿っている。


たとえばだ、「主体」として目覚めた「人間」がいたとしよう。その「人間」こそが「正しい」のだとしよう。
ならばその「人間」が次に考えることはなにか。
「私は「人間」として目覚めたというのに、なぜ他の者は目覚めようともしないのか」。
意図するとせざるとに関わらず、「主体」=「人間」に目覚めるということは、<非-主体>・<非-人間>に目覚めることとイコールである。
オルグや糾弾会や街宣強迫や折伏というのはみな、「目覚めた人」のやることである。*1


一方で、そこにコンテクストという言葉があることで、「主体」に含まれた間違いへの気づきがすでにあることもわかる。
つまり、問題は関係性なのだ。
人間を人間たらしめるものこそ関係性=コンテクスト=働きかけなのだ。


だがその「コンテクスト」も、「彼のコンテクスト」、「彼のようなコンテクスト」という意味であったらならば、何ら意味を持ち得ないだろう。
わかりやすく言うなら、その関係性という言葉に「自発的」という言葉を付け加えてみればいい。
「自発的関係性」。
ほら、ここに「彼」が生まれた。「私」ではなく、「彼」が。
個人の問題として、個別の問題として、「関係を構築する能力」などといった「理解」をした瞬間に、関係性=コンテクストのもつ関係性=コンテクストは失われ、全く別の異形のものが姿を現す。
――必要なのは「お前」の「コミュニケーション能力」だ!!


関係性=コンテクスト=働きかけとは、「関わりを持て」ではなく、「受け入れる」ということだ。
これはどこまでいっても「彼の問題」ではなく、「私の問題」なのだ。<非-主体>で、<非-人間>で、<テロリスト>である「彼の問題」とは、<非-主体>で、<非-人間>で、<テロリスト>である「私の問題」なのだ。
そうでなければ、、、、。
――そうでなければ?


まあ、どこで誰が何人死のうと知ったことではない、か。




「西洋チック」という、id:p_shirokuma氏の意見もまた奇妙だ。
人間力」という言葉があれほど好まれる国とは一体何という国だったというのか。
あるいは、「心の闇」という言葉が好まれる国とは一体どこの国だったというのか。
「ウチらの生活感覚」というまるで、日本社会が「東洋チック」であるかのような、「日本チック」であるかのようなその言い方は、まさかご自身の職業も忘れてしまわれたのか。




それにしてもだ、かの犯人の弟というのはよくしゃべる。
何誌目だ、独占手記だのインタビューだの。
いずれ後悔することになるとおもうが、もしそうでなくても、あれが別の犯人を育てる肥やしになってしまっていることは間違いない。
少なくとも、あれはどこまでいっても「彼の問題」であり、「私の問題」とはなっていないのだから。




戦う前に、愛する前に、「受け入れる」ことができる人間の数が足りないことが、そもそもの原因なのかもしれない。
「受け入れる」対象が「敗北」の二文字に置き換わったことが、絶望的状況を作り上げているのかもしれない。


私からは一人分の「無理」を伝えておこう。
パンがなければお菓子を食べる余裕などないのだ。


それにしても、この社会にすむ者の「受け入れ」対象は、一夫一婦制結婚に基づく一人の恋人というものに限られてもいるようだ。
あるいは、せいぜい家族まで、か。
なるほど、余裕がないわけだ。
家族という「主体」が、非家族という<非-主体>を「発見」するのが、「関わる」のが、忙しくて。




「彼」の耳には、一億二千万人分の「無理」という声がこだましている。

*1:意図して仏教を揶揄した表現ではあるが、仏教の「目覚めた人」=仏陀の目覚めとは多分また少し違うのだろう