「他人の力を頼る」ということ

ロスジェネ論壇に違和感を感じる件 - NC-15
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080629


赤木氏の穴だらけの話をたたきつぶすことは簡単なのだが、それでも重要なのは拾い上げていくことだとも思う。
そこで語られていない問題を。それが「言うことができないでいることがら」を。
彼もまた、「語ることができない」。

自分の力では何もすることできない。だから他人の力を頼ること。それを恥じないと思うことです。女性強者は男性弱者を養えと思う。強者は弱者に対して責任や義務があります。


ここでポイントなのは、「他人の力を頼ること」の前に「だから」がついていること。
そしてその、「だから」の前には「自分の力では何もすることできない。」という絶望的諦観があることだ。
そして、「それを恥じないと思うこと」というのは――どれだけ幼い言葉に見えても――ある意味でエンパワメントの言葉なのだ。


その「自分の力では何もすることできない。」には、「他人に頼る」こと自体への悲観が含まれている。
そこには他人に対する信頼そのものが欠落している。
「どうせ自分が誰かに助けを求めたところで意味のある反応など返ってこない」といったような。
そうではなく、逡巡せず、考え込まず、とにかくまず他人に対してカケラでも信頼をもってみろというような意味合いがあるように見える。


もちろん、「女性強者」云々はそこから足を踏み外したひどい妄想じみたレトリックなわけだが、それでも「強者は弱者に対して責任や義務があります。」という言葉はまた、「溜め」という概念にもつながる話ととるべきだろう。
つまり、「責任や義務」というレトリックしか持ち得ない拙さをこそ否定しても、そこに暗に含まれる「心理的格差」「余力の格差」「溜めの格差」を指摘する内容を捨て去っていいわけではないだろう。




あるいは、彼がとる「瀬戸際外交」としての問題は、人質に取るものが小さすぎるのが問題なのだと思う。
たかが「日常のセキュリティ」を脅してみたところで、「誰」も痛くもかゆくもないのだ。
仮に、無差別殺人を起こしても、その被害者は「テレビの向こうのどこかの誰か」だ。
しょせんは、「誰」も三日、四日で忘れられる程度の名前――固有名しか持ち得ないのだ。
だが、それが「誰か」ではなく、「不特定多数の一般市民」という固有名として立ち上がったなら、いや、そうなったからこそ、秋葉原事件は力を持ち得たのだ。
ならば、それをより力あるものにするための方法はただ一つ、歴史的、永続的な「固有名」をターゲットとするべきだということだ。