承認欲求という言葉がねじまげているもの――又は神のしもべ、ヨブは死ぬべきである


「承認欲求」という言葉が、何か問題を根本からねじまげているそのもののように思える。


「承認欲求」という概念こそが、「社会からの承認」という欲求を心理主義的に「ひとつの主体」のなかに発見してしまっている原因なのではないのか。


問題解決の手段としての概念把握をするのであれば、本来、そこで必要なのは、「社会への承認」なのではないのか。


社会に対する信頼と言ってもいい。


自分が生きていくことができるという「希望的観測」。


それがないことが、それが「見えない」ことが、それが「認められない」ことが問題の核心であるはずだろう。


それを、その内省的自我の主観的な性格にのみ焦点を当てるからこそ、それが「認」定を「承」けることを求める「欲求」だ、などという「正しい」見地からの意見となってしまうわけで、そんなものはわざわざ自分で目をふさいでいるようなものだ。


また、その「希望的観測」を「安心感」だというとセキュリティ的な発想に横滑りしていきそうなのでやめておいた方が良いだろう。




「信じさせろ」という言葉も神に向かってではなければ許されるだろう。


神を試すことを否定する神学があったとしても、社会を試すことを否定する社会学などないはずだ。


だが、そこに心理学が置き換わるなら、すべては「個人の信仰の力」へと堕ちていく。


ヨブを讃える幾千の詩編となって。