「情報機械」について

機械化帝国Googleが破壊する「生身の人間」 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080805/p1


たった一日でドカンと伸びて100ブクマ到達。
この世で一番肝心なのはすてきなタイミング(by坂本九)ですかそうですか。



「偶有性」万歳。(意味がズレとる)



せっかくなので、いただいたトラックバックからいろいろ視点を抽出。(順不同)



▼「新しい人権」という視点

民営の監獄都市あるいは監獄世界をグーグルは生み出すのか? - 小烏丸の日記
http://d.hatena.ne.jp/kogarasumaru/20080806/p1


>「技術の進展の前にはプライバシーはない」というのでは、今後ともそれを積極的に侵害していくという宣言のようではないか。技術的に「完全な」プライバシーがないからこそ、新しい権利としてのプライバシー権が叫ばれているということをかんがみれば、グーグルの主張は主客を転倒しているともいえるのだろうが…。


アマルティア・センに言わせれば、プライバシー権は「第二世代の人権」となるわけで、今回のGoogle社の犯行のようなもの(しつこいようだが「予告.in」や「厳罰化」も含む流れ)に対しては、それは対抗しきれないのではないかと思える。
「自由の侵害」というフレームを超えた、あるいはそれをさらに人間社会の構築原理にまで掘り下げたレベルにおける「第三世代の人権」概念を構築することでしか、有効な対抗策となり得ないのではないか。



▼情報的、経済的「格差」という視点

ソルジェニーツィン死去 - 一人でお茶を
http://d.hatena.ne.jp/nessko/20080806/p1


>特権階級、警備陣に守られた広大な敷地内の大邸宅に住む大富豪やゲーテッド・コミュニティーに住む選ばれた者と、そうでないそこらの一般人と、プライバシーの侵害の危険に差がないとでもおっしゃるのでしょうか。
自由競争ができる社会なら誰でも競争に参加できるんだからそれでいいでしょう、と、実態は人によって立場や事情が様々で競争に参加するにもそのときの条件がまったくちがっているのをないことにして、不平等など存在しない、そういうことにしてしまうのと同様の粗雑さ。
「べつにやましいことをしてないんだったらいいじゃん」という楽観的な意見もあるようですが、当人がどう思っているかなんていうのはどうでもいいことなんです。
やましいかやましくないか、怪しいか怪しくないか、それを決めるのは盗撮される私たちではない。審判する側にいるのは、ブッシュやチェイニーやラムズフェルドみたいなオヤジたちなんじゃないでしょうか。
Googleはもうあちら側の味方になってるのかもしれないね。


仮にこれが、「単なる技術の問題」であるとして、私のような意見を「新しい技術になじめない頭の古いラッダイティスト」として否定するというのなら、それは、情報技術、科学技術にコミットメントする際に存在している経済格差という側面を意図的に黙殺していることになる。
仮に、「あなたの住まいのプライバシーを守るための光学チャフユニット」というような技術が開発されたとしたら、そのような「最新」*1の「情報技術」*2を「買える」*3のは一体「誰」だろうか?
これでもまた、「技術はフラットだ」と言い続けることができるだろうか?



▼「能力」という視点

googleの最終目標はマトリックスかな - 徒然草
http://d.hatena.ne.jp/yo-net/20080806/1217988994


>というか、現実的には、人々にはプライバシーなんてなくなるかもしれませんね。
というよりも、googleに目くじら立てるんじゃなくて、それに対応する能力が求められると思いますな。
オイラの地元の地図もyahooマップの実写真で見ると5年以上前の写真が使われていたりするので、これはどうかなと思ったりします。
古ければプライバシー問題がクリアするのかというとそうでは無い気がします。
だから、googleも情報の新鮮度を上げながら、利便性とプライバシーとの戦いが起こるのかもしれません。


その「能力」という中身には、たとえば上に上げたような「経済的能力」といったものが平然と「フラット化」されて含まれており、現実に存在している様々の格差(経済格差・情報格差・技術訓練格差・意識格差)をあまりに無視している。
さらに、それらの格差をあえて無視したとしても、「人間」が「主体」として気づかないうちに構築され、整備される情報技術というものを、「自然」なものとして「受けいれる」ためには、あまりに人間は「生身」である、という視点を繰り返し強調したい。
電脳化によって情報インフラがリアルタイムで更新される様にも瞬時に対応できる、というSF的パラダイムへと至らない限り、公平に「自覚」することができない情報が「公共」を装って流布されるのは、少なく見積もっても人間社会に対する背信行為である。



▼補、「機械」=「動物」:「人間」=「生身」について
あの文中における「機械」とは、「戦争機械」(ドゥーズ&ガタリ)や「テロル機械」(ディスポ)といったものから援用して、「主体の操作を離れた自律的な社会装置」というような意味で使っている。
そして私の中では、この「機械」は、東浩紀コジェーヴ)のいう「動物」とイコ−ルで対応している。
東浩紀コジェーヴは、現代社会の人間の行動は「生理的反応」という意味でしかないといった点から、それを「動物」と表現したわけだが、この表現はあまりに生物的すぎ、それゆえの意味の横滑りをおこす「弱い言葉」なのではないのか、というのが私の認識である。
行動が「反応」に過ぎない点を取り上げるというのなら、それを「機械」と表現した方が、よほど人間と対比することができるのではないか。
そして、ここが一番重要なのだが、なおかつ、人間を「人間性」という「本質」とイコールで結びつけずに、その上で生物学的な条件に縛られ、制限された「生身」の存在であることに焦点を当てられるのではないのか。
肝心な点として強調したいのは、「人間性」などという「本質への信仰」ではなく、人間という生き物が「生身」であるという事実、である。
人間を「人間性」とイコールで結びつけてしまったら、それこそポストヒューマニズムにおける人体の技術拡張に反対するラッダイティストに横滑りしてしまう。
そうなったら、「パラダイム原理」を振りかざした「技術発展は社会の発展とイコールである」とうそぶくGoogle社のような犯行に、まったく抵抗する足がかりを失ってしまう。
先に挙げた「第三世代の人権」とは、今言ったような「人間性=主体」以前のなにものかを規定するものでなければならない、と考える。




<追記>
さらに補足すると、「人間以前」とは、「個体別の身体性」というような限定的な対象から始まる考察ではなく、まさに「偶有性」(偶然性≒確率)によって左右される、つまりは主体的に操作することが不可能な交換サイクル=交換可能性にむかって開かれたものとしての条件、として考察される必要がある、と考える。




またさらに補足すると、ヒューマニズムとポストヒューマニズムは、「生物的身体への信仰」の有無という点が異なるだけで、本質的には同じものである。
つまりは、人間は、自然に与えられた肉体と精神という条件を駆使して「高み」へと向かうべきである、というのがヒューマニズムであり、
人間は、自然に与えられた肉体と精神を技術によって拡張して「高み」へと向かうべきである、というのがポストヒューマニズムである。
両者はともに、人間が向かうべき方向性としての「高み」、すなわち「人間性」への信仰に基礎付けられているわけであり、
より根本的には、「内省的自我」の独自性・独立性というものへの信仰を暗に基礎としている。









あと、あのタイトルが999*4ネタだと気づいてくれた人に感謝を。
GGG*5ネタにまで行ってたら誰も気づいてくれなかったかも……

*1:の情報に接することができ

*2:の「必要性」を理解してなおかつその意味が理解でき

*3:だけの十分な経済的余裕を持つ

*4:銀河鉄道999

*5:ガオガイガー