(中国社会の)テロリズム――「国家−国民」パラダイムの終わり?

厳重警備に打撃 米国人観光客襲撃 責任問題に発展も - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080809/chn0808092017009-n1.htm


ニュージーランドのTV解説者襲われる、北京で男がいす投げつけ - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080809/chn0808092128010-n1.htm


五輪妨害テロか? 中国新疆で爆発、2人死亡 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080810/chn0808100907003-n1.htm


重要なのは、20世紀以来その問題が指摘されていたウイグル地区だけではなく、開催地である首都北京においてそれが発生しているということ。
「自分がこんなに苦しんでいるのに、よくもお前等外国人がアホ面下げて金ばらまきに来やがったな」という感覚がそこに透けて見える気もする。
あるいは、「自分には関係のない祭りに、せいぜい冷や水を浴びせてやる」といったものか。
だとすれば、これはオリンピックが「民族の祭典」として機能しなくなったことを証明する端的な証拠ともいえるだろうか。
これほどわかりやすい大がかりで単純な国威発揚の「祭り」すら、テレビという統制機械から離れればその効力を失う、と。


日本では「第二回東京オリンピック」で「日本民族の再生」を、と願う連中もいるらしいが、はたしてそれもどれほどのものだろうか。
「祭り」へのシニカルなニヒリスティックな没入が様式化された時代に、あからさまな「仕掛け」が見え見えの「祭り」が「本当の日本人意識」を生み出すなどと本気で考えているのだろうか。
たとえ北朝鮮がミサイルを撃ち込んできたとしても、もはや運の悪い「自己責任」として=他人事として処理されるだろうこの状況で。


即ち、「国家」が個人の生存を保証することへの信頼が失われた状況において、「国民」は存在しないということである。
「国家」が生存を保証することを信頼して、その対価として、交換として、個人は「国民」になっているのだ。
自然発生する「国民」など、存在しない。
文字通り、無形の交換がそこには前提化されていて、その無形の、不可視の、透明な交換が破綻しているのが現代社会なのだ。