テロリズムへの遡行

機械化帝国Googleが破壊する「生身の人間」 - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080805/p1


「セキュリティ」!
それこそがテロリズムの「本質」なのだ。


先の記事のオチでは、上のように指摘した。
どう考えても「セキュリティ」ではテロリズムに対抗できないし、それどころかその「セキュリティ」こそがテロリズムを生み出す源になっているのだと思う。
また同じように、どう考えても「人間主義ヒューマニズム」というのはテロリズムの対抗概念ではあり得ないし、むしろ「人間主義」こそがテロリズムの発生源だとしか思えない。


「安心」や「セキュリティ」や「人間=人間性」などというものを持ち出す限り、テロリズムは存在し続ける。
両者が相補的な関係にあるのだとか、「正しい価値」への暗黙の信頼に基づいた反抗というものでもない。
両極に見えるそれらは、根源的に同質なのだ。


だがまた、「セキュリティ」という名のテロリズム、という理解では不十分なことも確かだ。
「セキュリティ」という名目で行使される暴力について指摘するだけでは、テロリズムを語ったことにはならない。


テロリズムは、戦争ではないし、犯罪でもないし、暴力ですらない。
いや、テロリズムは、戦争として発生するものではないし、犯罪として発生するものでもないし、暴力として発生するものですらない、というべきか。
それらの否定的な定義は、すべて事後的に与えられたものであり、テロリズムが発生した時点における評価ではないという点で不公平な評価である。
そのような偏った認識からは必然的に、偏った評価しか生まれず、その偏りの原因をさぐるなら自己=自文化をテロリズムと対置する肯定的な位置に置こうとする無自覚な前提化が原因である。


テロリズムを敵だとまなざした地点からの考察は、まさしくトートロジー的にテロリズムを敵だと結論づけるだけに終わる。


それには何の意味もない。
テロリズムについての考察という意味でなんら意味を持たない。
「戦争の一形態」であろうと「犯罪の最上級」であろうと、否定的評価を前提とした考察は、テロリズムについての考察とは言えない。


「わかりにくいから黙れ」などと言われ続けている、「ストリートビュー」=「予告.in」=「厳罰化」の指摘であるが、これらの三つはテロリズムの源流――<源テロリズム>、<前テロリズム>、<生テロリズム>とでも言うようなもの――に触れるものであると考えている。
この一見何の関連もないように見えるこれらのものに、だからこそ、何らかの共通する傾向はあるのではないか。
なぜなら、それらはすべて「セキュリティ」に触れるものだからだ。


まだ、それらは「機械」=「テロル機械」ではない。
しかし、Googleがそれに最も近いところにいるのは確かだ。