「出かける」ということ


「出かける」ということが、「出かけなければならない」という強迫になることがよくある。


たんに、内なる切迫感につつかれると言うことではなく、「出かけなければならないのに、行きたい場所が思いつかない」というときに感じる強迫感だ。


結局、「どこへ行きたいとも思っていない」のに「どこへ行こうという気も起こっていない」のに、「それでも、どこかへ行こうと思わなければいけない」、という感覚につきまとわれるのはなぜなのか。


「出かけなければいけない」というのがそもそもの強迫感の根源だということは頭ではわかってはいるのだが、それを消化するにはそれこそ「出かけなければならない」。


「必要がある」ときには「出かける」ことはできる。逆に言うと、「必要がなければ出かけようとすら思わない」。


この要不要と密接に結びついた、結びつきすぎた行動原理というのが「おかしい」のだろう。


幸い(?)クーラーを使わない主義なので、昼間にもなれば扇風機から熱風が吐き出されてきて困る。


「それを避けるため、涼みに行くために出かける」ということであれば必要の概念にも合致する。


では、そのときに自分はどこへいきたいのか?否、どこなら出かけていってもかまわないと感じるのか?


きれいで、しずかで、すずしくて、飲み物があって、食べ物があって、人が少ない、そんな空間。






検討の結果、部屋を片付けてクーラーを付けるという結論に達した。







やむを得ず、家の中で一番ものが少ない場所に移動し、そこで涼むことにした。