「自助努力」としての自殺/「健常者のため」の自殺

hiro_nagasaku 2008/08/31 00:47
私は鬱病ではない、鬱病と同様の精神疾患で社会からリタイアしています。
よく鬱病で自殺したといいますが、あれは病気を苦にして自殺するのではありません。
体験者しかわからないと思いますが、ある日突然、精神的に非常につらい状況に遭遇します。
その状態でそのままいることがあまりにもしんどいので、それから逃れるために死に走るのです。
私もその状態になった時に、あまりにも体しんどくなっていくなっていくので、死んで楽になりたいと思いました。
薬を服用してなんとかそのしんどい状態からのがれることができました。
精神的な病気のの人はこういう状況がしばしば襲ってくるので、それに耐えるのができなくなって自殺してしまうのだと思います。
他のように病気を苦にして死ぬと言うよりは、病気によってそういう状態に追い込まれるというのが本当です。
このあたりが健常者の精神病について認識の違いがあると思います。<<

miminoha 2008/08/31 03:09
>「障碍」だの「精神疾患」だのは「正しい人間からの隔離カテゴリ」としてつくり上げられたもの
違います。偏見です。反対に「非人間隔離」の社会的装置からの解放として精神医学が生まれました。
日本の精神医療が先進国のなかで特殊であることは承知していますが、治療や社会復帰に対するサポートを提供すること自体を否定する意図が理解できません。


あらゆる精神状態が「自己責任」の結果なのだとしたら - こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080830/p1#c

>hiro_nagasaku
状況/>状態
インペアメント(機能障碍=生理的障碍)は薬で避け得ても、ディスアビリティ(文化障碍=社会的障碍)は避け得ないということですね。
結局、「健常者」というのは、自らが「社会的障碍」を作り上げている、「健常者」の存在そのものが「社会的障碍」であることを理解しないのですね。
絶対に。




>miminoha
おそらくあなたの「善意」は、「業界内部の情報が業界そのものを否定するような内容をはらむことはない」という一つの例です。
日本であるか、その大本の欧米であるかの違いにかかわらず、「家畜」管理から「人間」管理へと位相をズラしただけのものです。


「解放」と言われるものも、実質的に「障碍者」としての訓練に等しいものでしかありません。
なぜなら、「障碍者」には、常に「健常」な状態へと「自己責任」で努力を続ける事しか許されていないからです。
治療や社会復帰に対するサポート というのは、つまりそういうことです。


それが何を「サポート」しているのか。
「健常者」の「健常者」による「健常者」のための「健全」で「健康」で「健常」な社会、です。


自殺とは結局、その「サポート」=「努力」の選択肢の一つであるに過ぎません。
「障碍を無くす事」が唯一にして絶対の法なのです。
障碍者」が「健常者のため」になしえる最高の「善」が、自殺なのです。


あなたのような「善意」をも含めた絶対肯定として、自殺は存在しているのです。




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