「萌え」とは表現ではなく技術である

という、数年前から暖めてたネタがあったんだけど、ほったからかしすぎて冷めちゃった。



劇画とは「劇画宣言」によって、それ以前から既に技術的には展開されていたにも関わらず、事後的にその宣言時が成立した年次となった、という瓜生説を援用し、『動物化するポストモダン』出版の2001年が「萌え」の成立年次であるとするとかなんとかいうのをオチにしようと思ってた。



核になるのは、「萌え=CG」仮説。
そこでまた比較するのが劇画。
劇画とは、カブラペンからGペンへの移行によって獲得された表現形式だとする。
そこから「萌え」を俯瞰すると、手書きのイラストからパソコンのペインターツールへの移行こそが「萌え」の最大の要素であり、表現内容の記号性云々は文字通り事後的に発見されたに過ぎないとかなんとか。



にもかからわず、「萌え要素」という記号性を大きくうたった『動ポモ』を「起点」とするのは、そもそも『動ポモ』の読まれ方に問題があると補足する。
つまりは、文化的現象のわかりやすい一側面として「萌え要素」が取り上げられたに過ぎないものが、まるで「オタク文化こそが時代の先端文化である」などといったようなオタクの自文化中心主義的な誤読があることが事態を複雑化している。
実は、『動ポモ』は中身をよく読めばDQN礼賛の本。
その「読まれ方」の問題をクリアすれば、「萌え」が社会的に公言された「起点」としての意味を見いだすことは十分可能だとかかんとか。



で、「萌え=CG」仮説の傍証とするのが「ハンコ絵」との俗称。
あれこそ、描画技術=ツールによって表現形式が決定されていることの何よりの証明。
西又なんとかさんの絵が「萌え絵」の代表になっているのは、あれこそが「ハンコ絵」の典型的なものだから(以下ry









違うよ、全然違うよ。という人が多いだろうな、というのはご愛敬。
だって、しんどいし。