マンガ・メディアにリベラリズムはあるか?

プラネテス』のポリティカ その1 - 猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1


プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090808/p1


プラネテス』における「政治」について考える - 上田亮の只今勉強中
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20090726/1248588372


結局、マンガというメディアそのものが、「自称ノンポリ無宗教」な「政治的中二病」に基盤をおいている、ということなのではないだろうか。
パーセンテージ的に見ていけばもっとハッキリするはずで、マンガというメディアは本質的に「消極的保守」として機能しているはずだ。
「努力すれば根性で勝利する」という基本原理に貫かれたものが「しょせんは」マンガなのではないだろうか。


仮に、リベラリズム的な作品があったとしても「努力・根性・勝利」という基盤を大きく踏まえた上でのもので、その枠の中で工夫が凝らされたとしても、それを読み解くのはごく一部の限られた読者になるのではないのか。
アニメにしても、だ。


主人公と敵がいて、主人公と敵が戦って、主人公が敵に勝つ。
リベラリズムという「文脈」は、大半がその「結果論」のすき間に流れ去ってしまうのではないだろうか。