チンピラヤクザファンタジーが日本的サブカルチャーの根幹

asahi.com朝日新聞社):スイスでアニメ高畑節 ロカルノ映画祭で講演 - 映画 - 映画・音楽・芸能
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200908140183.html


盟友である仏のアニメ監督ミシェル・オスローと共に登壇した7日の講演で、
高畑は日本アニメの特長を
「現実とかけ離れたファンタジーではなく、現実と地続きのファンタジーを展開する」「見る人を主人公と一体化させる演出がうまい」と指摘。


その一方で「主人公との一体化が過ぎ、作品に笑いがない。笑いには対象との距離が必要」
「やる気や勇気さえあれば勝てる、成功する、という物語が多い。技術の習得や状況判断の大切さも描いてこそ、見ている子供が生きていくのに必要な力をつかめるはず」と苦言を呈した。


日本アニメがよく批判される暴力描写については
「画面上すごく見えるだけで本当の意味でのリアリティーはない。暴力的なものを見たから子供が暴力的になる、とは思わない」
これに対しオスローが
「作品は社会に大きな影響力を持つ。例えば自殺を描いたりマフィアを肯定的に描いたりすることには、慎重であるべきだ」と反論した。

上記の高畑の「『リアル』な根性論の風土」指摘、そして同時に露呈している「暴力表現に対する認識の甘さ」を煎じ詰めればどうなるか。
言うまでもない、チンピラの説教芸になるのだ。
それが日本のサブカルチャー、いや文学・映画をも含めたすべての日本的フィクションに通底する「チンピラヤクザファンタジー」である。


ヤクザ体質の評論家 - 甘口辛口 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/50672553.html


日本人は不思議な民族で、ヤクザや愚連隊を美化した映画や演劇を好む傾向がある。ヤクザなどには、「強きをくじき、弱きを助ける」というイメージがあるからだ。反権力を掲げた全共闘の学生たちが、高倉健の登場するヤクザ映画を愛好したのも、このためだった。
だが、ヤクザや愚連隊の実態はどうなのだろうか。彼らは、本当に「弱きを助ける」義侠心を持ち、戦場に出たら祖国のために勇敢に戦ったのだろうか ――全く、逆だったらしいのである。


――ところで、空威張りしてみせるが、芯は臆病で卑劣だというのは、ヤクザや愚連隊だけであろうか。日本人の男優が誰でもうまく演じられる役柄は、ヤクザと兵隊だといわれる。この事実は、たいていの日本人が潜在的にヤクザや兵隊の素地を持っていることを意味してはいないだろうか。事実、日本の男たちの多くは、軍隊で年期を積んでいるうちに、新兵いじめを楽しむようになったのである。


この問題は、この『プラネテス』にももちろん通じている。

プラネテス』のポリティカ その1 - 猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1
プラネテス』のポリティカ その2 - 猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090808/p1
プラネテスのポリティカ その3 - 猿虎日記(さるとらにっき)
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090814/p1


原作もアニメもどちらも見たが、どちらかというとアニメよりの印象であることを断っておくが、『プラネテス』とはたとえていうなら宇宙版『グラン・ブルー』なのである。
つまり、「男は、自分の心の中の信念を貫くべき、否、貫いて『しまう』ものである」というロジックが作品全体に貫かれている。
局限すれば、『プラネテス』にしろ、『グラン・ブルー』にしろ、自閉症的思考方法の絶対的正当化の物語であると言っていい。
比喩としての「自閉症」ではなく、文字通りの自閉症者の思考、という意味で。


そうした、男の信念=自閉症的思考とは、即ち「他者の存在を消去すること」に他ならない。
上記記事では、ロケット開発者のロック・スミスの独善性と自己正当化がクローズアップされているが、アニメ版では主人公のハチマキが「木星へ行く」ために恋人のタナベの存在を「完全に無視する」という点に、表現の重きが置かれていた。
それも、ハチマキ自身が気づくのではなく、タナベの「絶望」として描かれていた。
その後、二人は和解して結婚=妊娠=ハッピーエンドとなるわけだが、そこにおいても、「男の夢を支えるための心の強い妻」というポジションにタナベが収まることで「幸せ」が描かれていることは否定できない。
主体的に描かれてはいるが、タナベの存在はあくまでハチマキの「独善的な夢」を支えるものとして「完成」するものとなっている。


保守的な男尊女卑の価値観、というよりも、一見してカジュアルに改良されてはいるが、根本的な部分で「男の信念=独善性」賛美が決定づけられている、といえる。
そして、この「他者の不在」が「チンピラヤクザファンタジー」であることは、また別の作品が極めてわかりやすい形で証明している。


『ROOKIES』である。

ROOKIESと京都教育大学事件 -徹底した他者不在- - velvetdeath
http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20090621/1245549316

TBSの自己実現。(相手を殺して)明日にきらめけ。 - 深町秋生のベテラン日記
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090724

Methings | Podcast | Episode: 2009/06/23 ザ・シネマ・ハスラーROOKIES-卒業-Podcast
http://www.methings.com/podshows/4846084


この作品で描かれる「俺たち以外は存在しない」という集団的視野狭窄は徹底している。
「俺たち以外は存在するべきでない、否、存在『しない』のだ」という自己陶酔感でみたされている。
それはもちろん「男達の男の物語」として、徹底的に美化されて描かれ、そして同時にチンピラヤンキーの「更正」=「人格的完成」の物語としても描かれる。


即ち、「他者の不在」の徹底が「完成された健全な人格=男」なのである。
逆に言えば、「他者の不在」を前提としなければ存在できないものが「男」だとして正当化され、そしてそれが大いに「受けて」いるのである。
この精神構造を、京都教育大学の(そして他の多くの大学の)体育会系の学生が起こした集団レイプ事件の心理に読み取った上記一番目の記事は、極めて正しい指摘をしているといえる。


そして、この話において、個人的に最も恐るべき点こそは、この映画が日本で大ヒットしている、つまりこの「チンピラヤクザファンタジー」こそが日本人の精神構造の最大公約数であると証明されているのだということである。


「他者を顧みない独善的な自己陶酔」こそが日本人の精神の根幹なのだということである。


たかが、ここ10年のネオコンネオリベに始まったことではないのだ。


あの「自己責任」論こそが、日本の国に歴史的に伝わる伝統的価値観だったということである。




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