人付き合いで悩むことと恋人で悩むことは同じ

長年人付き合いで悩んできた挙げ句見つけた究極の法則
http://anond.hatelabo.jp/20100222220737

他の部分はそれなりだがともかく一番のしっくり来たのはこれだ。


<4. 他人は他人、自分は自分だ。全く別の生物種と考えるといい。他人を自分のモノサシで測ることほど愚かなことはない。別の生物種だということをよく覚えておけ。>


そう、自分と他人とは全く別の生き物であるという感覚、キリンとパンダとシロクマが同じ場所に住んでいるとしたらそれがどれだけ異常な環境かは想像に難くないだろう。動物園とはそれほどまでに異なるサイズのことのなる生態の異なる種類の生き物を強引に寄せ集めた空間である。
これが社会の比喩であることが言うまでもないだろう。
山岳群体は山に入れられ、水性個体はプールに入れられ、ぞれぞれじぶんに取っての必要かつごくせまい生存環境ごとに隔離されていきている。


ではなぜ、生育環境も、住環境も、文化志向も、教養も、知識も、肉体も、顔つきもなにもかも条件が異なった全く違う生き物が、なぜ「同じ人間だ」などという寝言ひとつで「なかよしごっこ」を演じなければならなくなるのか。


不可能不可能そんなことは不可能だ。

結婚はさておき恋愛がしたいけど好きな人がいない場合にやってみること - 世界の果てのはてな
http://d.hatena.ne.jp/stein/20100223/1266859925


さて、周囲の他人のすべてが自分とはまたく違う生き物であることに気づいたとして、されそこからは恋愛などというものが発生してくる余地はあるのだろうか?
なにやら方法論が説かれてはいるが……

★結婚はさておき恋愛がしたいけど好きな人がいない場合
 →身近にいる恋愛対象の性別の人で「5年後会えなくなってたら寂しい人」がいないか考える。
  ※5年は勿論目安なので各自卒業転職などにあてはめて考えればおk
 →そういう人がいたら、その人と恋だの愛だのしてみたらどうかと考える
 →してみたいなと思ったら友達以上になるべく進んでみようと努力する
 →してみたくなかったら友達のままでいいんじゃないかな
 →でもそれだと多分寂しい話だけど5年後には縁が切れてるかも


そもそも他人が、自分とは全く異なる他人であること前提にした時、そこにはまず相手に対する認知をそもそもどのように行えばいいのかという問題が発生してくる。
つまり、「会えなくなったら寂しい人」?というものがどのようなものであるのかと、考えるところから始めなければならない。
ということは、「会話または交渉が断絶することが自らの不利益になるような情報をもった他人が存在していること」が、上の方法論の前提となっていることがわかる、しかしそれは「他人と交渉して利益を引き出すことが」恋愛というものだということにつながる、


だが、動物園のパンダはキリンに興味関心を示しているだろうか?ライオンは蛇に関心を持っているだろうか?シロクマはシカに関心を持つだろうか?


そもそも「他人とは自分とは全く違う生き物」だという地点に経った時、そこから開けてくるのは「自分と同じ生き物などいない」ということだ。
そこから5年後の人間関係をイメージしてみたところで、利益が一致するような違う生き物と出会うことなどいったい何をどうすれば可能だというのだろうか。
仮に捕食者とエサという関係が成り立ったとしても、「エサ」にされた側が幸せなわけは当然あり無い。そもそも対等すらでない、



よほど「人間は恋愛すべき生き物だ」というのであれば、この「自分と他人とは全く違う別種の生物だ」という感覚をどのように組み替え、可能性を引き出せるかにかかっているのだろう。



しかし私は、「自分と他人とは全く違う別種の生物だ」という考えこそ、真実正しいものだと確信している。