サイレントテロと「可能性の国家」


このままだと日本が滅ぶと騒ぎ立て、老人共が保守の再編に嬉々としている。


だが、過去の「歴史」や「事実」という御輿をかかげ、他人を、敵を差別することでしか連帯できない、内向きで後ろ向きで恥知らずなつながりが日本の保守であることは、否定する余地のないところである。
わざわざ「在特会」という例を挙げるまでもなく、それをまるで空気のように見て見ぬふりをするあなた自身の存在がそれを証明しているのだから。


ではサイレントテロなどとうそぶくお前はどうなんだと問われれば、こう答えよう。
自分自身が誰かの敵になるという可能性から逆説的に考え、そのような可能性にあてはまるものすべてを友とみなして助け合おう、支えあおう、そしてその中で自分自身も助けられ、支えられていこうというものが私の理念だ。
これが「可能性の国家」の基本理念だ。


かつて交通事故で1万人を超える死者が毎年続いていた時、それは「交通戦争」と呼ばれた。
いまこの十数年の間、毎年3万人を超える自殺者が出ている。さらに、それをWHOの基準に合わせて変死者をも含めた数字にするならば、実に毎年10万人もの自殺者が十数年連続で出ていることになる。
この十数年間で100万人以上の人間が自殺しているのがこの日本という国の現実だ。


これを「自殺戦争」と呼ばずになんと呼べばいいのか。


「希望は戦争」だって?そんなものはとっくにはじまっている。問題なのはそれがまったく空気のように見て見ぬふりをされ、無視され続けているということだ。
ただの自殺、ただの個人の問題、ただの自己責任、そうやって切り刻み、切り詰め、切り捨てられて、毎年三万人というキレイに整えられ「調整された」数字ですら、まるで季節の風物詩のように扱われ、「ではスポーツです」という笑顔の暴力で一瞬にして消し去られてしまっているではないか。


誰が誰を助けようともしない、誰が誰と支え合おうともしない。
なにもかもが「自己責任」の名の下に、個別の個人の個々の小さなクダラナイ問題として分断され切断され切除されて、いまここのこの瞬間だけの安心と安全を麻薬のようにむさぼっているだけなのが日本だ、日本人だ。


もはや、日本人が日本人であろうとすること自体が日本を滅ぼすのだ。
ならば、日本人が日本人であろうとすることを捨て去ることからしかこの可能性は開かれないことは明らかだ。


この国の、文化の、風土の隅々にまで根をはった日本的なるものを引きはがし、根こそぎひっくり返し、新たなものにすることでしか、この日本という国家に可能性はもはや生まれ得ない。
この国に可能性をもたらしたいのであれば、それはもはや日本的なるものすべてを捨て去ることからしかはじまらない。


だがそれは革命ですらない、それぞれは個々のごくちいさなささやかな振る舞いに過ぎないだろう。
そして、見えもせず、聞こえもせず、触れることもできないだろう。
なぜなら、「敵」とは弱いものだから。小さなものだから。
そして未来とは常に小さなものからはじまるものだから。


だが、もし基礎から腐り果て崩れかけたこの日本を上から塗り固め過去を美化するだけで誤魔化そうとする保守に心引かれるというのなら、
あえて言おう、あなたがサイレントテロリストだ。
まだわからないのならもう一度言おう、あなた方は敵同士だ。


私ではない、あなたが日本を滅ぼすのだ。




テロル機械 (エートル叢書)
ローラン ディスポ
現代思潮新社
売り上げランキング: 995490



テロリズム―歴史・類型・対策法 (文庫クセジュ)
J.=F. ゲイロー D. セナ
白水社
売り上げランキング: 210303
おすすめ度の平均: 4.5
4 フランスのテロリズム研究書
5 本格的な入門書