メタ・ユリイカ〜ユリイカ4月号ざっと読み〜
id:ueyamakzkさんも内田センセイもたけくまさんも北田氏も執筆されたユリイカのブログ特集号を、ざっと読んでみた。
が、そこでまず気がついたのは、「こんなに紙質よかったっけ?」という内容とまったく関係のないことだった。
念のため、前の押井守特集号を確認してみた。うーん同じか。
さらに、前のクィア・リーディング特集号を確認してみた。やっぱ同じか。
ということはこれまでは余程内容に御執心だったらしいのだな、ということがわかった。
とすると逆に、今回に限ってこんなことに気がついたのはなぜか。
つまり……
なんか期待はずれな気がしたのだ、正直な話。
これほどまでに流布している――流行というよりも、そこにあるのは氾濫する言葉であるところから、どこか流布という言葉のほうが意に沿うような気がする――ブログが、何かお定まりのコース上の「上がり」として「紙」という権力に回収された、という場景を垣間見るつもりで目前に突きつけられたようなシラケ感というか、
そう、ひそかなお楽しみとして存在していたひと癖あるモノが、ある日突然、市場でクローズアップされ、「オサレサブカル化」した*1かのような。
こういった特集号というのは、10本載っている内の1本でも当たりがあれば良しとしなければらないないのが常である。
常ではあるのだが、
が、
ハズレの文章の内容にあまりに既視感が感じられてしまったという点でこれはかなりのマイナス、つまり、期待はずれという評価だ。
なぜか。
それは、この特集の特集たるゆえんから見て、至極当たり前のことなのだが、
この特集号に掲載された文章がそろいもそろって、メタブログだということにつきる。
ブログをやっている人間なら、誰しもが「はしか」のようにかかる、もうどこかで書いたような、もうどこかで読んだような、「われわれは何者か、われわれはどこから来たのか、われわれはどこにいるのか、われわれはどこへ行くのか」という問いの範疇を、掲載された文章の、そのどれもが超えていないのだ。
いや、むしろ超えることを求めてはいけないのかもしれない。
ユリイカの特集、ユリイカの特集の内の「色物」の場合には特に。
それは「対象*2」に対して、「半歩」踏み出した層に対するアピールでありアプローチでありガイドラインなのであって、決して「一歩も二歩も」踏み出した人間が何をか得んことを期待するべきものではないのだ。
結局のところ、一歩二歩の地点にいる人間であればそこにあるような視点、そこで示される評価については、すでにどこかで見聞きした範囲内に収まるものだ。
もちろん時には、一歩踏み出す足場を得ることもある。
が、もし本当にその足を前に出そうというのなら、ユリイカではなく、北田氏の『嗤う日本の「ナショナリズム」』ISBN:4140910240ではないのか。
正直最初に上山さんが、原稿を書くという記事をブログで読んだとき、これは「ひきこもり」特集なのか、とふと思った。あるいは、「ブログという思考空間」にまつわる、「ブログ上で展開される思考錯誤」にまつわる、そういった特集なのかとも思った。
が、いざふたを開けてみれば、なんのことはない(ことはないのだが)、
それは、メタブログだった。
ブログについて語るブログが、印刷されたものであった。
だから、という訳だけではないのだが、
今回はユリイカを買ってません。*3
だって、読みたい文章はもう目の前にあるんだもの。*4