文学的表現としてのスラムは何を輝かせるのか

生命をことさら眩しく輝かせるスラムというシステム「スラムドッグ$ミリオネア」 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール
http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20090422#p1


上は映画「スラムドッグ$ミリオネア」への評であり、その内容については特に意見はない。
だが、その記事タイトルに見受けられる文学的表現ははたして見過ごして良いものなのだろうか。


生命をことさら眩しく輝かせるスラムというシステム

たとえば、こう言い換えてみよう。

「生命をことさら眩しく輝かせる貧困というシステム」


また、たとえばこんなニュースがある。

大阪の女児不明、母ら3人逮捕…奈良で遺体を発見 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090424-OYO1T00278.htm?from=top

あるいは、こう言い換えてみよう。

「生命をことさら眩しく輝かせるホームレスというシステム」


また、あるいはこんなニュースがある。

「ゲームキャラ倒す感覚」中学生ら4人、ホームレスに暴行 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090423-OYT1T00680.htm?from=navr

映画で描かれているもの――スラムが、
「自分の身近にないもの」だからこそ、美しく輝かせているのではないのか。
「自分の身近にはないと思っている」からこそ、体よく整えられているのではないのか。
「自分にはまったく関係がないと思っている」からこそ、眩しさに目がくらんでいるのではないのか。



だがそもそも、この映画は「絵に描いたような貧しい人間が絵に描いたような成功を収めるおとぎ話」だ。
そしてそれは、当然、見るものがこの話を「眩しく」「美しく」感じるように作り上げられている。
だから、ある意味でこのタイトルはまさに映画制作者の目論み通りに引き出されているに過ぎない、とも言える。
なるほど、これはアカデミー賞受賞作品で皆が涙するためによろこんで小銭をまくための商品だ。



映画に感動したその帰りに、誰が貧困者を見下し、誰がホームレスをさげすんでも、まったくそれは自由だ。





だから、変更せよとか、訂正せよとか言うつもりは全くない、念のため。
ただし、「言葉狩り」云々という無思考な反応を示す通りすがりの匿名コメントはあらかじめ禁止しておく。