「萌え」が「10歳児のためのポルノ」だとしても〜『嫌オタク流』へのひとこと〜

嫌オタク流』の一つの章には、「萌えは「10歳児のためのポルノ」」というものがあるらしい。


刺激的なタイトルではある。だが、その中身はそれ以上でもそれ以下でもないだろう。
週刊誌の中吊り広告と同じだ。
――だとすれば、それはあまりにナイーブな批判ではないだろうか。


もちろん、「暴露!暴露!暴露!誰もが口をつぐんだ「真実」を今ここに白日の下にサラシてみしょう!いざいざ!」というテンションの景気良さはわかる。
「自意識過剰なオタク」に冷や水を浴びせて、自らが「高み」にあることを確認して悦に入ろうというのもわかる。


だが、それでも「批評」だというのであれば、ベタなテクスト批判をして「ハイ出来上がり」という地点で収まるのではなく、批判的検討の果てに見えてくる地平を提示できてこそ、批評足りえるのではないのか。


たとえば、「萌え」が「10歳児のためのポルノ」であるとして、それを「暴露」したところで、なにが変わるというのか。
彼らが「萌え」の製造の全てを一手に引き受け、市場を左右するビックプレイヤーならともかくも、その実態はどう見たって、裏返しに「萌え」に便乗するサブプレイヤーだ。
もし、仮にジャッジを下す審判の役を任じているのだとしたら――いったい誰が何を基準にその任に選んだかはともかくとして――ゲームに参加する一方の側にだけ、笛を吹き、カードを出して、それですむわけがない。
それこそ、「懐のウォンはいかながされたのですか?」だ。


「萌え」が「10歳児のためのポルノ」であるとしよう。
ならば、その「テクスト」がいかに「読まれ」て、またいかなる「場」を、いかなる「効果」を生み出しているのかを説いてこそ、批評ではないのか。
「それでは「萌え」言説の一端として埋没し、「萌え」の「肯定」にしかつながらず、結局、批判対象を補強するだけになってしまう」と言おうというのであれば、それこそ上っ面の上澄みのお為ごかしだ。
「暴露」という背面からの補強にいそしむ一方でそのような念を抱いているとしたら、なんともぬるい欺瞞である。


それこそ、「「萌え」とは、あえて「10歳児のためのポルノ」を装われたもの」だとしたらどうなのか。
フェティシズムに限らず、性の文化コードとはつまるところ「隠すこと」にこそある。
いかなリアルなウタマロよりも、いかに露わなうわばみよりも、「向こう側への期待」を感じさせるものこそが、「ポルノチック」なのではないのか。


しかも、それが商業的慣行として定型化されてしまった後になっては、消費者という立場から逃げ得ない者が、いったいどうやってそれに抗えるのか。
萌えは、もはや逃るべくもないまでに偏在している。
あと2歳ゾーニングの枠を広げて「高校生になれば堂々とエロ本が読めますよ」というようなことにでもしたいのか。
「イラストじゃなくて写真や映像にしましょうね」とでも言いたいのか。


もし、妄想の消費に明け暮れることを批判して、「日常へ帰れ」「現実へ帰れ」というのがオチだとして、一体「どこ」へ帰れというのか。
――「帰るべき場所」が確かにあるとでも本気で思っているのか。


現代における「日常」とはもはや「消費そのもの」である。
消費というカーニヴァルを日常的にこなすことこそが現代の「現実の生活」なのである。
すでに20年以上も前から、とっくにカーニヴァルは始まっているのである。
「オタクと現実とは違うのだよ!」と、消費の質の「マッハの違い」をうれしそうに指摘したとして、それでいったい何が指摘できているのか。
その「消費の質」を判断するその「軸」は、誰が、どのように、設定し、また保証しているものなのか。


そして、それでも、消費に狂うことを批判するというのであれば、消費への意欲をもたないことを糾弾するマーケティング屋をこそ、声を大にして批判するべきではないのか。


現実とは、消費ではなく、恋愛なのだと言うにしても、もはや恋愛のパラダイム自由主義に振り切れ、「弱肉強食」「自己責任」が、鉄の掟としてそこにある。
もてない者はもてないのである。
たとえそれが差別と偏見の末に形成されたものだとしても、ひとたび形成された事実は、現実追認的な自由主義の前に、逃れようのない烙印として課されるのだ。
それこそが妄想ではない現実である。
それがわかっていないものがどれほどいるのか。


それでも、その中でも、ことここに至っても、まだ、自らの性を維持しようとしている健気な愚か者たちの行為を、今以上これ以上のプレッシャーをもって、暴露をもって、粉砕し破砕し爆砕し塵芥と化そうというのか。
追い詰められたオタクが、負債としての性を放棄せんとし、包茎手術とパイプカット手術はほとんど同じ値段でできることに気付いたとしたら、パイプカット手術の広告が包茎手術の広告に取って代わるまでに、悠長なタイムラグはないのではないか。
――かろうじて残った「晩婚」という少子化問題の解決へのきっかけを、「非婚」「悲産」という落としどころにまで落としたいのか。


だが、この本の構造的陰湿さは、揶揄の対称にしている「知的エリート」を自認するオタクが「いない」ことなど十二分に織り込み済みだという点だ。
この本の背景には、カンチガイオタクがいるかいないかという問題について「そんなことはどうでもいい!!」という姿勢がある。
実際にオタクがどうあるかなど、どうでもいいのだ。


――なぜか。


それは、
この『嫌オタク流』という本が、もともと韓国の反日感情のシミュレーションである『嫌韓流』のさらなるシミュレーション芸*1だからである。


そして、もう一歩踏み込んで言うならば、
これは、
たとえ異論が吹こうとも、たとえ反論が荒れるとも、「なにをかいわんやプゲラウヒョー」という自動返信メッセージが内蔵された「人口無能」なのだ。


むなしい限り、だ。












え?もちろん読んでませんが何か?「これをかうなんてとんでもない!」


こどものじかん』でも買ったほうがマシ例のひどい惑星の本で十分ですよ。

*1:それこそオリジナルなきシミュラークル