テロか、犯罪か <TOKYO WAR 2008・アキハバラ>

この事件でいうべきなのは「スペクタクルだから」ではなく、「スペクタクルへ」であろう。
スペクタクルとは事後的に発見されるものだからである。
ハイジャック犯がたまたま狙ったツインタワーが、アメリカ・グローバリズムの象徴に「なった」ように、この事件で名実ともにアキハバラが日本の中心であることが、日本の象徴的中心であることが「証明」されたわけだ。


だがその「証明」も、ある種の実感を元に形成されていることは否定できない。
どこかの地方都市ではなく、日本の首都である東京、その象徴的中心であるアキハバラが狙われたことの意味をくみ取らなければならない。


なぜ、アキハバラか。アキハバラとは何か。
経済的中心である東京に位置するアキハバラ。「クールジャパン」という輸出産業の象徴アキハバラ。電気製品とオタク文化を同時に体感できる観光地アキハバラ。あるいは、ソフトパワー外交の象徴アキハバラ
現代日本の文化的中心はまさにアキハバラなのだ。――その実態的正否はさておくとして。


逆に考えよう、アキハバラ以外の「場」で起きていたら、この事件はこれほどの影響力を持っただろうか?
たとえばこれが大阪の日本橋だったならどうだったか。
とたんにちっぽけな地方住民の馬鹿馬鹿しいボヤ騒ぎとして記憶の闇に葬られていたのではないか。*1


アキハバラ以外にこれほどの影響力をもたらす「場」があるだろうか。実は――ある、それこそが学校だ。
教育によって「日本人になる」「人間になる」システムの象徴としての学校は、偏在する日本の象徴的中心だといっていい。
だからこそ、これまで何度も学校を狙った犯罪が――テロであることを隠蔽されたテロが、発生していたのである。
ならば今回の事件への対応として「匿名空間の警備強化」がなされることから予測できることは、テロリズムが再び学校へと、スクールキラーへと回帰するという可能性だ。
だが、それももはや学校という「場」が校門を閉ざすことで逆に象徴化し、「学校」として社会一般へと拡散し、特定の空間を必要としなくなっていることを併せて考えれば、単純な「門を閉ざせ!」というかけ声ほど無意味なものはない。
お家に帰ってからも「学校」なのだ。


すなわち、事の大小を問わず、場の異同を問わず、群発する小さなテロリズムの時代が静かに幕を開けたのである。


サイレントテロ――これは日本という国・民族・ネイションそのものに対するテロリズムだ。
これはエンターテイメントではない、戦争だ。
日本という国と、「もう一つの国」との。
日本という国家テロと、「もう一つの国」のテロとの希望のない戦争。
この国にいるのは一億二千万の国民ではない、一億二千万のテロリストだ。




テロか、犯罪か。
その答えは、いずれの要素が多いかよって決定されるというより、その問いが発されること自体に含まれている。
テロであると認識するか、犯罪であって欲しいと願うか、というその問いに。


これをテロであると認識すれば、自分がいつ殺されるかという恐怖の存在を認めることになり、また自分がいつ殺す立場になるかという恐怖に身をすくめることにもなる。
これが犯罪であると願うなら、それは自らが日本という国家テロ(国家というテロル機械)に同化することを意味し、自分が殺す立場にいることを欺瞞的に忘れ去ることになる。


結局、どちらの側のテロルに与するのかという問題であり、国家=テロル機械という力ある暴力によって解決を計ることを認めるか、それに組み敷かれる力なき者として疑問を抱くかの違いに過ぎない。
では、力なきものに暴力はないとでもいうのか、殺人という犯罪こそ暴力ではないか、という声もあるだろう。
だが、テロとは精神的暴力である。そこで発揮される物理的暴力はあくまで手段であり目的ではない。
より具体的に言い換えれば、どこの誰が何人死のうがなんの意味もないのである。
凶悪な犯人や、悲惨な被害者とは、テロを彩るイコンに過ぎない。
巻き起こされた精神的な恐怖=テロルこそが力を持つのである。


「結果を想定していない」、すなわち「事件によって引き起こされる波及的効果が計算に入れられていない」という意味では、この事件は犯罪である。
しかし、自らの命を顧みない自殺的な破壊活動という意味では、明らかに自爆テロの一種にあたるといえる。
携帯・パソコン・インターネットというツールによって情報インフラが行きわったった「一億総マスコミ」とでもいうような状況が、本人が意図するとせざるとにかかわらず、ささやかなログの積み重ねすらも「犯行声明文」に昇華させ、大々的に頒布される。
犯行としてはテロではないが、現象としては明らかにテロである。
「言葉」をもたないテロリズム
個々の政治性を奪いつくされた者のテロリズム
これをサイレントテロと呼ばずして何をそう指すのか。


あるいは、「不作為」というサイレントテロの原理に忠実であれというなら、これをサイレントテロに含まれるアノニマステロとして規定しようか。
誰でもない人間が誰でもない人間をどこでもない場所でいつでもない時間に殺傷するテロリズム
殺す側も殺される側も起きる場所も起こされる時間も特定されないテロリズム
殺す側と殺される側の見分けのつかないテロリズム
すなわち、「テロリスト」が「テロリスト」に生のままで対峙するテロリズム


「オタクにとっての911」という表現も見られるが、もしこの事件をその表現に貶めるのならそれこそとんだ「自爆テロ」だ。
これは、「日本にとっての911」であり、これまでも綿々と起こっていたことであり、それがことごとく忘れ去られ、「声」を奪い取られ、今回ようやく「発見」されたのだというのに。
まあ別に、「また忘れよう」というならそれでかまわない。
あるいは、「結局生き残った一般人は「ああ(あの犯人のように)ならない様に日常を堅持しよう」と反動保守の姿勢を取る」というなら、むしろ、「忘れて」いただいた方が結構だ。


それでこそ、第二、第三の「911」が日本で吹き荒れることになるのだから。


いくつでも、何度でも、「ただの犯罪」として「異常者」の枠に貶めていればいい。
そううそぶく人間が殺される誰かの中に含まれる可能性が増えるだけの話だ。




「誰でもよかった」という言葉の欺瞞性についての指摘もある。
しかし、「誰でも」と言いながら「非力な者」を選んでいる、というが、それを言うなら「運が悪い者」というべきではないのか。
「運が悪い」のなら、犯人が意図的に主体的に選別したわけでも何でもなくなる。
そもそも、そこにたまたま空手部の団体がいたとしたら、あるいは自衛隊で訓練を受けた人間がいたとしたら、それを「非力な者」だと言えるだろうか。
大体、被害者の中には警察も含まれているのである。まさしく犯人は「権力の犬」に一矢を報いているわけである。
むしろ、「誰でも」という言葉の欺瞞性を追求するなら、警察という「力ある者」が被害者に含まれていることを、どう欺瞞だと意味づけるのか。
あるいは、「誰でも」という無作為性を徹底すれば「柄の悪い人々」を殺して「社会正義」に貢献することもできるはずだというのだが、それこそ無作為性の原則を否定することになるのではないか。
そして、「社会正義」に貢献しろというなら、それは特定の固有名に対する明確な攻撃となり、それこそ「誰でもいい」という論理からは大きく外れる。
その意味で、社会的・政治的・経済的名声のある人間、固有名を持った人間ではなく、無名の一般人を狙った今回の事件には、一片の欺瞞も含まれない極めて純粋な原理が貫徹されている。


「誰でもよかった」というその言葉を否定できる要素はどこにも見あたらない。
誰か特定の人間を目標としていたら、それこそこれは「ただの事件」として、片隅の三面記事程度の扱いで終わっていたのではないか。
犯人が誰か特定の人間を殺せば、およそその二者間で話は完結してしまう。
「だれか有名な人間、企業経営者、政治家、芸能人、ヤクザを殺していればよかった。そうすれば、もっと共感も得られただろうに」という意見もある。
が、そうなったときには、また別の意味で犯人は自らの声を奪われることになるだろう。


仮に今回の犯人がトヨタ本社の出勤ラッシュの人波をなぎ倒していたとしても、「無関係の社員を殺すな」という声が発せられたのではないか。
経団連の御手洗会長や奥田名誉会長を狙っていたとしても、それは「企業テロ」として、企業と従業員の関係に過ぎない、企業内部の問題だと処理されていただろう。
芸能人であれば、その「ファン」が感情的な怨嗟を振りまき、犯人に対する「異常者」のレッテルを巨大化させていただろう。
また、ヤクザを狙えというのは、犯人に対してそれを願う者こそヤクザ的心性の持ち主だといえるのではないか。鉄砲玉として死ね、あるいは自殺するくらいならお前の命をオレのために使えとでもいった風に。


そして、政治家を殺した場合には、そのテロがこの「日本という国へのNO」であることが、より大きな嘘で上書きされてしまう可能性がある。
その実例が、長崎市長射殺事件である。
この事件は暴力団員というアウトサイダーが起こした事件ではあったが、それはまぎれもなく直接の利害関係者間において発生したテロ事件であった。
だが、この事件にはどのような法的処分がなされただろうか?「普通」はもう忘れているだろうか。
そこでは、利害関係に基づく事件考察ではなく、「自由と民主主義の敵」という肥大化した敵のイメージに対する人権の剥奪が行われていた。
「一名の死者」に対して「一審の地裁判決」で「死刑」が下されるという異常な法の暴力があった。


あるいは、今回の犯人が規制改革によって雇用環境を劇的に悪化させた小泉純一を殺していたら、それこそ政治・経済界の権力者が、力ある者たちがこぞってマスコミをメガホン代わりにして「自由と民主主義の敵」への大糾弾会を行い、アメリカ・アブグレイブ刑務所同様の人権剥奪が起きたのではないか。


だからこそ、アキハバラという現代日本の中心において、日本という国家を左右する権力をもつ者である匿名の有権者=一般市民を標的にしたのである。
すなわち、国家テロリストの一員としての一般人、無関係を装いながら無自覚に他人の「死」を消費する「普通の人々」を。
――人権を持った「人間」を!
それでこそ、この事件はテロとして「日本という国に対する絶対的NO」としての意味を持ちうるのである。


この事件が起こったのがアキハバラでなければ、日本の象徴的中心でなければ、過去の同様の事件と比べ、ネット上でもこれほど広く語られることはなかったのではないか。
三日もしないうちに忘れ去られてしまっていたのではないか。――いや、たとえアキハバラであっても、、、……


この事件で、「自分より非力な者/無防備な者」が、「警戒感を解いた消費者」が選ばれているという点に疑念を抱くのなら、それがテロの一つのパターンであることを忘れているためだろう。
「誰でもいい」とは、「誰かであってはならない」ということである。「誰でもない者でなければならない」ということである。
「自国民」以外の第三国に対するテロにおいては、「無実という罪」こそがターゲットなのだ。
これは、ハイジャック犯と同様の論理に基づいていると考えれば、今回の事件は「シティジャック」だということができるだろう。
国家の最小単位としての航空機が、国家の最小単位としての象徴的都市に置き換わっただけの話である。
あるいは、政官財の「第三者」である一般市民を「人質」に取ることで一般市民の圧力を喚起し、政官財に政策の変化を要求するものであるといえる。


このような見方に対して、「「犯罪者予備軍」を甘やかすな、セキュリティを強化しろ」という声が内藤朝雄氏から出たのは意外な気もするが、もちろんそれも一理ある。
しかし、インドネシアの「アモク」を取り上げ、モノのように冷たく取り扱えというのは「中間集団全体主義」を批判する同じ人とも思えない。
セキュリティ的な排除の論理は、「中間集団全体主義」を超越しているとでもいうのか。
そこは、スリランカの「悪魔払い」の方をこそ取り上げるべきではないのか。
内藤氏の「敵」が「共同体的なもの」であるというなら、それを肯定するような「悪魔払い」は「敵」を認めることだから言及しないのか。さて。

<参考>
現代社会の悪魔祓いとは ブログ加藤眞三 医療の維新をより良い方向に  /ウェブリブログ
http://katos.at.webry.info/200506/article_14.html


セキュリティを強化して「誰でもない人間」を黙らせれば、「誰でもない人間」の被害は防げるのか。本当に?
愉快犯、模倣犯ならその程度の対処法でなんとかなるだろう。
だが本当に自殺的、自爆的な動機から発せられるテロを同じ発想で防ぐとしたら、それこそ人権のタテマエを捨て去った人権を奪い取る人間管理システムを用いる必要があるのではないか。<非-人間>を徹底的に<非-人間>に貶める<非-人間>的制度が。


すでにそれが社会の隅々にまではびこっている現在、この上さらにそんなものが必要なのだろうか?




若者を殺してどうするという意見は、殺された者の中には中年や老人も含まれているという事実を忘れている。
第一、「味方同士で殺しあう」というのはなんの冗談だ?
「社会運動をする、デモをする、小説を書く、演説をする、投票をする、ブログを発信する、その他その他、あと精神的なものなら精神科に行くなど」というのは、すべて人権を持った者、「人間」の条件を備えた者、「人間性」を周囲から認められる環境にある余裕を持った者にだけ許されたものだ。
そこからこぼれ落ちてしまった人間に対して「できることがある」などというのは、「パンがなければお菓子を食べればいい」と言うようなものだ。
現実には、パンがなければお菓子を食べる余裕などないのだ。
そして、オタクを殺そうとしたのでもない。もはや観光地化した場において、そもそも家庭用電気製品の販売を主とする場において、オタクだけが殺せる、オタクだけを殺そうという発想は成り立たない。(事後的にではあるが)
そもそもそれを貫徹できる場所など、よほど徹底したリサーチを行わない限り不可能である。
もはやコミケですらオタクだけがいる場所ではないのだ。




この国を一億二千万の「テロリスト」が歩いている。日本人という「テロリスト」が。










I would prefer not to be.






テロル機械 (エートル叢書)
ローラン ディスポ
現代思潮新社
売り上げランキング: 995490



テロリズム―歴史・類型・対策法 (文庫クセジュ)
J.=F. ゲイロー D. セナ
白水社
売り上げランキング: 210303
おすすめ度の平均: 4.5
4 フランスのテロリズム研究書
5 本格的な入門書


*1:「日本の文化の中心」京都は、だって?こんな古臭いイメージに郷愁を覚える頭にカビの生えた人間が菌糸をはびこらせているだけのとっくに終わった土地に「力」などない。もし、失地回復を願うなら、それこそ今回同様に大規模な歩行者天国が狙われる事件が起きてこそだろう。あるいは、御霊祭に怨霊が舞い戻ったなどとなれば、それはそれで「美しい」ともいえるか?