「コロッセウム」は「村八分」か
「新手の五人組か村八部か」とのloveless zero@秋風さんからのコメント&リンクを頂きました。(【2005/05/26】の項)
ですが、ここで想定しているのは、なんというかそれほど具体的な動きというものではなく、いや具体的ではあるが明示的ではないというか、一種の「空気」のようなものとして見ています。
JR叩きに興じる「市民の皆様」のお姿は、かつてイラクの人質を「自作自演」と罵ったものでもあり、失業者やホームレスを見れば「気楽でいいよな」とゆがんだ羨望交じりに侮辱するものでもあり、いじめ事件がおきれば「いじめられるほうが悪い」と言い切ってしまうものでもあり、一度子供が事件を起こせば「すべて学校の責任」と罵るものでもあり、・・・言い出せばきりがないほど「健全」なものです。
いや、「村八分」という言葉から想起させられる「村」的な地域性がここでは邪魔をしているのかもしれません。
この「コロッセウム」論で前提としているのは、都市における主にメディアを通じて得るような「薄いつながり」です。
「村」的な地縁・血縁といったものが結ぶ「濃いつながり」の中での排除も、まさに死活問題だったでしょうが、一方で村の内部に安定した関係性があれば、それは過剰なまでの相互扶助的な機能をも果たしていました。
しかし、都市生活の中では一度「効率化」の波に乗れなくなったときに、再びそこへ戻るための支えとなるために機能する「縁」がありません。
- (不登校や中退や退学という状態からの「まっとうな」学校システムへの復帰の困難さ。あるいは、大学新卒のタイミングで就職できなかった人間の就職の困難さや、ひきこもりから脱しての社会参加の困難さ。派遣や契約社員の正社員に上がることの困難さ。そしてまたリストラで失業した中高年の就職の困難さ。など、一度タイミングを逃すと二度と立ち直れないまでにくじけてしまうほど、「効率化」の壁は日本社会の中に高く立ちはだかっています。)
「自己責任」を掲げる自由主義的な価値観が機能し、孤立した家族単位でそれに立ち向かわなければならない都市生活の中では、畢竟、「社会階層の再生産」が促進されていくことにもつながります。
――「ヤンキーの子はヤンキー」「医者の子は医者」といったように。
「近くの他人」をあてにすることなど到底ありえず、「遠くの親戚」に頼ることができれば本当に「幸い」といえる中で、多くの場合にはそれもありえず、結果、ミクロレベル=マイクロレベルでの問題が密かに散在し、積み重なっていくことになります。
――話を少し先取りすれば、これがマイクロテロの温床といえるわけです。
「村八分」が排除される少数者と結束する多数派の構図であるのに対し――もちろんそこには、次に排除されることへの恐怖感が生む集団への従属の強制力が働いているのでしょうが――、「コロッセウム」においては、この排除の「強制力」の流動性がかなり高くなっているといえるでしょう。
その原因には、複雑に分業化したシステムに支えられた社会や均質で広範な都市型生活、それにメディアによる「強制力」のレンズ効果があるといえます。
「自作自演」発言や「いじめられっ子」を侮辱していたJR西日本職員がいなかったとは思えません※。ですが、彼らは今、家族との私的な娯楽ですら許さされないような壮絶な非難の渦中にいます。
- ※追記:どうやらこの推測は事実であったようです。非難されて然るべきというか、事故を起こすのも当然というか・・・
面接官のギョーテン発言 JR西日本採用試験
志望者「組織の体制としてどのような問題があったのですか?」→面接官「現場に一番弱い人間がいるのが問題」。さらに、面接官「弱い人たちをどううまく動かしていくかが課題です。あなたのように現状に満足しない立派な人ならいいのだけど、大卒総合職以外の人間は……」
このように、「コロッセウム」における「強制力」はいつどのような形で自分の身に降りかかってくるかわからないのです。しかも、それはメディアを通して何百キロも離れたところから、顔も名前も見えない不特定多数の相手から、一方的に受け続けることになるのです。
――あのヒゲの読売新聞の記者はその「強制力」のいい例です。また以前に、彼は浅田農産の会長夫妻を自殺に追いやったとも言われています。
予測不可能なタイミングで予測不可能な形の事件が、ここかしこで起こるようになったとすれば、あらゆるところで「事件」に対するハリネズミのような過剰なリスク予防的行動がとられ始めることも、やむをえないこと、と一見見えてしまいます。
しかし結果的に、社会の中で静かに積み重なり横たわる「排除対象」を叩き出そうとする、「疎外」しようとする、その過剰な予防行動こそが、反って、予測不可能な「事件」を呼び起こすことになってもいるのではないでしょうか。
これはなにも「寝た子を起こすな」というのではなく、「寝ていてくれればいい」というのでもなく、どこか都市生活における「疎外」こそが、ある個人の中にいわれようのない――行き場のない悪意を蓄積させていき、それがある日、社会にしっぺ返しを食らわせるように反作用を起こしているのではないのかと思えるのです。
たとえば奈良の小学生殺害犯などは、不運にも家族を早くに亡くし、自らも障害を抱え、それをことあるごとに他人から突付かれ続けてきた人間です。
もちろん、彼の罪は罪であり、罰は罰として、この世の裁量で科されるべきだとは思います。
が、
さて、
生きながらにして彼岸へと追いやられた人間の思い、いかばかりのものでしょうか?
しかし、そのような被害感情を刻み付けられた人間に対して、「普通の人間」が浴びせかけるのはいたわりの言葉ではなく、「それは、「ルサンチマン」だ」などという嘲笑――笑いという暴力です。
そのような苦しみを内面に抱くことすら否定するのです。それも、嬉々として――。
これこそまさに、壁から這い上がろうとする奴隷を蹴落とし、のた打ち回る様を眺め、それを肴に宴に興じる「コロッセウム」そのものではないでしょうか。
島田紳助という、もはや文字に記すもおぞましい思いを抱く「人気タレント」の言葉にこういうものがあるといいます。
――「いじめというのはされたほうは地獄かも知れんけど、やったほうには楽しい思い出やねん。」
なるほど彼の「人気」とは、彼と一緒に笑うことで奴隷を蹴落とすことができ、他人の苦しむ様を楽しんで眺めることができるというところにあるのでしょう。
とはいえ、薄い希薄な関係性がマイクロレベルの危機を生んでいることに、さすがの「普通の人々」も薄々ながら気づきだしたからこそ、近年この「地域」待望論がお題目ように唱えられてもいるのでしょう。
ですが、結局のところ、「普通」を自称する人々の「健全」な思考からは、「まずは異常なものの排除だ、疎外だ」という意識しか表に表れてきません。
自らの立ち位置を常に「善」であると規定する考え方からは、真に他を救済するような志向が生まれてこないことは、アメリカという国を見れば明らかです。
強いつながりを求めながら、やっていることは弱いものの排除。
「内」を形成するためには、かならず「外」を必要とする。「外部」があってこそ始めて「内部」が形を成すことができるとはいえ・・・、
「地域」待望論は、もはや泥沼の様相を呈しているといえるかもしれません。
――そして、この泥沼具合こそが「コロッセウム」の本質なのかもしれません。
泥沼の「コロッセウム」がメディアを通じて広く深く浸透しているという中で、それでも「地域」を求めるというのであれば、
そのメディアを通じた不特定多数への「思いやり」の発信という、想像力の回復をこそ、「情けは人のためならず」という精神をこそ、影響力のある人間が強く訴えていく必要が、あると感じます。
そう、ルサンチマンを笑うな!