「慣習」(パートナーシップ)は「制度」(結婚)に勝る?

――ひとつではないさえたやり方

最高裁判決:婚姻外の男女の関係を一方的に解消したことにつき不法行為責任が否定された事例
十数年に渡ってパートナー関係を続けてきたある男性とある女性*1がいた。このほどその男性が別の女性との結婚を希望し、そのパートナー関係の解消を宣言して、両者は分かれることとなったが、その女性はその解消が「突然で一方的」だとして、法的な裁判に訴えて慰謝料を請求したというお話。
このほどその最高裁で「その男性にはその女性に対する慰謝料を支払う義務がない」との判決が下され、そこで始めてこんな話もあるのだなあ、と、知った。さもあらん、さもあらん。
何も以前から注目していたわけではございません。そんなんしらん、そんなんしらん。
どうも、「フェミナチ」呼ばわりされたことが、いまだ頭の中でリフレインされ、それが原因でこの手の話に敏感になっているらしい。*2

さて、この話の要点はというと、フェミニズム的パートナーシップと法制度的慰謝料の関係の問題である・・・
といってしまうと、何かイデオロギー闘争のように聞こえてしまうが、はたしてそうだろうか?
とつとつと視点を絞ってみると、
その女性が、パートナー関係において、「母」的な意識を持つことを選択的に排除しながら、「妻」的な意識に関しては自明視していたのではないか、ということが浮かび上がる。
特に顕著なのが、子供の出産に関する両パートナー間の合意、協定である。
子供の出産に関しては、その男性が要求したらしく、もともと女性にはその気がなく、その妥協点として養育に関する権利を男性にだけ限るという契約が交わされていた。一人目のときも、二人目ときも、同様の契約がなされていた。
この「母」と「妻」のズレとは、言い換えればセックスとジェンダーのズレだろうか。
とはいえ、そこまでは両者間で完全に合意が形成されていたわけだ。
しかし、
裁判にいたった直接の原因――パートナー関係の一方的解消――と、この判決――結婚制度外の関係には法の保護は及ばない――にも、微妙なズレがあるような気がしてならない。

最高裁の視点は、パートナー関係を「相互の事実婚上の信頼関係というよりも、相互の生活上の保障関係とみた」ということである。
それは、これまでの両者間の「合意」、「協議」の重点がいったいどこにあったのかという点にある。
最高裁の視点は、「それらは、端的に、ありていに、一言でいって、「財産」のためであった」とする。
両者は、相互に財産に干渉しないことを相互に確約した上で、子供の出産についても同様の契約を結び、さらに育児に関しても同様の契約を結んでいた。また、日常生活に関してもまったく別々の場所で別れた状態で営むという関係であった。
故に、そのようなそもそも財産の侵害が発生しない関係においては、それが解消される時も同様に財産請求権は発生しない、という理屈であると考えられる。
つまり、今回の「そもそも両者は法的な関係にはないのだから、慰謝料請求権が発生するような「不法行為」にはあたらない。」という判決は、
どちらかというと、「財産上の問題」として処理された感が強いように思われる。
そも一般的な「離婚裁判」における「慰謝料」の性格は、「謝罪の獲得」というよりも、「財産請求」に近しいものがある。その視点でもって、この裁判を見る限り、どう転んでも「慰謝料」の獲得は困難だとしかいいようがない。

しかし、どうもこの判決からは、訴えの根本的な意図がこぼれているように見える。
この訴えとこの判決には、どうにもズレがあるような気がしてならない。

ここで抱く疑問は、「「慣習」は、はたしてすべて「アウト・ロー」なものなのか?」――私的関係でのトラブルは本当に民法の保護の及ぶ範囲ではないのか?――という疑問だ。

ここでムダ知識として思い出されることは、確か、ドリフターズ志村けんが愛人のスチュワーデスと別れたときに、三年間の内縁状態にあったことを理由に、何百万だかの慰謝料を支払わされたことである。
この裁判のケースは、子供や財産などについて、書類上の結婚、協議離婚、公証人を立てての契約を経た上で、最終的な婚姻関係には至らない関係であった。志村けんの場合、完全に法の枠外における私的な関係であって、今回のような契約関係になかったことが、逆に慰謝料請求権の発生を生んだのだろうか。この裁判のケースは、なまじ法的な契約関係を事細かに締結したことが、「戦略ミス」だったのだろうか?
いや、志村けんのケースとこの裁判のケースの違いは、「生活を共にしていた、同棲していた」という点だろう。この裁判のケースは、「財産はおろか生活まで分離した状態での関係の解消」であるから、志村けんの場合ともまったく違うことになる。
やれやれやっかいだ。
判断の分かれ目は、裁判所の想定する慣習的関係に、「同意による別居」が入っていなかったということか。また、別居という生活様式が「慣習的に」離婚のソフトな様式として行われている比率の高いことが、この最高裁の判断に作用しているようにも思われる。


結局、判決を貫く精神としては、「法的な「支配」を受けなければ、法的な「保護」もない」ということなのだろうが、
合意によって立つ「ゆるやかなパートナー関係」の解消にあたっては、その関係の無期限の継続を「暗黙の了解」とすることはあんまりだとしても、少なくともその解消を合意によってなすことは、「暗黙の合意」としてよくはなかっただろうか。
それがなされなかったから、このような裁判沙汰になったのだろうし、そうすると、変種だとはいえ、これも一種の「離婚裁判」であることは確かだろう。
だとすると、その男性に過失が認められてもおかしくはない。
「法」を前面に立てるこの最高裁の判決にも、当然一理はあるが、その男性からも、少なくとも謝罪の意は伝えられてしかるべきではなかっただろうか。
とはいえ、合意=コミュニケーションによって立つ関係を継続していた両者間において、謝罪に類する言及がなかったとも考えにくいし、そもそもそれがなかったとしても、女性の頭に「合意に基づくパートナー関係の将来の可能性の中にはその解消は含まれない」というのは、少しナイーブな(純情すぎる)面が否めない。
では、その女性にとっては、その何が気に入らなかったのだろうか。
謝罪の仕方だろうか。あるいは、解消の原因が他の女性であったことだろうか。はたまた、他の女性との「結婚」であったことだろうか。それとも、慣習的様式から制度的様式への「転向」ということだろうか。
人事ながら複雑だ。
やはり「問題」は、女性側が、これまで相互の信頼関係の下で任意契約的関係を継続してきたのを、最後の最後で法的な問題に訴えてしまった点にあるようにも見える。
なんであろうと法律上の問題として提起してしまえば、その裁定基準は法律にしかなく、結果、法的な関係を回避してきた経過を見るに、法的な「保護」*3はやはり受けられないという結論になる可能性は当初から高かったのではないだろうか。

おそらくその男性からすれば一度、関係の破綻に近い状態を経たことが、関係解消の暗黙の理由だったのかもしれないが、そも、両者が合意に基づくパートナー関係を結んでいたのであれば、その解消に関しても何らかの合意は、通過儀礼としてでも、必要だったのではないだろうか?はたまた、この裁判自体が、この裁判を起こすこと自体が両者にとっての、さらには社会にとっての通過儀礼だったのだろうか?

訴えの根本的な意図としてあるようにみえる「謝罪」という面、また、「慣習的関係」に関する問題提起的な面を考えると、
個人としての戦術としては、法的な手段の選択はミスであったが、フェミニストとしての戦略としては、二審判決という一応の戦果は得たということであろうか。


どうにも複雑な話だ。


少なくとも、わかりやすい話だけがウケる2ch向きの話ではないということだけは確かだ。

*1:この「男」「女」の記述順に特に深い意味はございません。あるとすれば、私が男だからであり、男としての機能を有することに甘んじ、男としてこの事件に接することを「選択」したからであり、そのことでもって、これをマッチョ(男根主義者)と判断されることは避けられるかと考えます。

*2:時にキレやすいのかもしれない。くわばらくわばら。

*3:求めていたものが保護かどうかは分からないが