人はオタのみにて生きるものにあらず〜オタクとコミュニケーション〜

まずはじめに、
「モテ/非モテ」=「恋愛/非恋愛」ではない、ということが一つあるそうだ。
それは、語義的に厳密に考えるならばそうなる、ということなのだが、
しかして、一般的に口にする・耳にする文脈での「モテ」概念(「もてる/もてない」という単語)は「恋愛」の語と十分に置き換え可能なものなのではないのだろうか、と考えてしまう。
だがしかし、さらに突き詰めれば、
オタク用語としての(オタクがオタク的会話文脈で使用する)「モテ/非モテ」と、一般用語としての「もてる/もてない」(恋愛可能/不可能)の間には、ある種の看過しえない差異が含まれているのだということは、認識しておく必要があるだろう。*1


さて、
オタク的な「モテ/非モテ」概念とは、きわめて他律的な受動的関係性に基づいた概念であり、そもそもコミュニケーション(相互の認識の差異を前提にした意思交換)を基にした「恋愛」の文脈とは原理的に異なっているのだという指摘がなされていた。*2

「彼女が欲しい」→「女の子にモテたい」に至る過程で読み替えがある。それは自覚すべき。

http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041218#p1


また、「モテ/非モテ」概念とは、コミュニケーション志向を持たない人間が、にもかかわらず否応なしにさらされる「恋愛主義」*3的情報下において生じる、容易に避け得ない心理ストレス的な病理の表明であるという指摘もある。*4
http://d.hatena.ne.jp/busky/20041211#p9


そうしたところで、
「そもそもオタクとは、コミュニケーション不可能な存在なのだから/そもそもコミュニケーションへの志向を持たない存在なのだから、恋愛(コミュニケーション)への志向を表明すること自体がおかしい(オタク的ではない)」という意見がある。

とすると、「コミュニケーションから撤退した者がオタク」だというのであれば、「コミュニケーション可能な者が一般人」だということになるだろう。
では、
ああまで自らに対し、そして他者に対して雄弁なオタキング岡田斗司夫氏もまた、コミュニケーション能力の有無によってオタク/非オタクを判別するならば、オタクではないということになる。
そうだろうか?
では、
「オタクでありながらコミュニケーション可能な粋にとどまる者」とはいったいなんであろうか。彼らは、オタクではないということになるのだろうか。
しかし、こう仮にいえるかもしれない。
彼らは、「真のオタク」ではないのだ、と。
だとすると彼らは、オタクでもなく、また一般人でもない彼らは、どういう存在となるのか。


ここで一瞬、これに類するかと思われるのは、「ライトオタク」という言葉である。
しかしこれは、いうなればオタク的姿勢追究の真摯さの度合い、濃度の深浅を基準とした、オタク的知識・姿勢の薄い・浅い者を指す言葉となっている。つまり、「能力的に劣った格下のオタクが、ライトオタクである」ということである。
参照:「今、そこにあるオタクの危機」 第4回


そもそも「オタク」という呼称とはなんなのか?
この「オタク」とは、およそ二つの意味に分けられることになる。
「現象としてのオタク」と「志向としてのオタク」といえるだろうか。いや、「消費者としての/メディアレッテルとしてのオタク」と、「個別の志向としてのオタク」の差異とした方がより近いか。
より単純化すれば、「他称される「オタク」」と「自称するオタク」、ということにもなろうか。


そうすると、ここから見えてくるのは、オタク的能力とコミュニケーション能力とは、ベクトルが逆だということでは「なく」、その二つは、次元を違えた別種の問題だということである。
コミュニケーション能力の低い・弱い者が、オタク的志向に親和性が高いとしても、それが事実あったとしても、「オタクであること(オタクの定義)と、コミュニケーション能力とは、まったく別種の問題」だということである。


そうすることで初めて、ここで、それを保有していることが、さも当然のように語られる「コミュニケーション能力」――その「社会的な場におけるコミュニケーション能力とは一体、何か」という問いが発せられることになる。


恋愛の文脈をはずし、「コミュニケーション」という概念のみに思考を促せば、自ずと、それがおよそ「会話能力」という一枚岩によって立つものでは「なく」、それが多様で複雑な要素の集合によって成り立っているものだということが明らかとなる。


ボディランゲージ、アイコンタクト、ジェスチャー、「らしい」しぐさ・・・会話以外にも、すぐにこれくらいのコミュニケーション方法が挙げられる。
しかし特に、このトピックにおいて重要だと考えられるのは、個人的経験則の蓄積によって構築される「印象」なるものの存在である。
これは端的に言えば、発言の一部を以って、あるいは外見的特長によって、コミュニケーションを拒絶する/される原理、原則である。


ここで少し、小学生のあの残酷な実態を思い出していただきたい。
かのクラスの中のヒエラルキーで、上位に位置していたのは一体どのような子供だっただろうか。
それは、明らかにカッコイイ/美人な子、または運動のできる子ではなかっただろうか?そして、彼らを中心してコミュニティ=コミュニケーション可能なグループが形成されてはいなかっただろうか?
それはつまり、それ以外の人間をコミュニケーションから排除することで成り立つものである。その究極が、古今東西なくならない動物的非道さ残酷さ陰湿さを以ってなされる「いじめ」という現象である。
このコミュニケーションからの排除は、往々にして、生存することをも許さないほど苛烈なものなのである。
これは一体何を言おうとしているのかといえば、
つまり、人間のコミュニケーション能力の基礎とは、生まれつきの、親からの遺伝的要素でもって決定されてしまっているということなのである。*5
容姿はともかくも、運動能力に関しては異議が出るかもしれない。だが、後天的な身体能力の開発が可能となるのはおよそ義務教育以後のことであり、そして、それまでの十分すぎる期間によって、その人間のコミュニケーションの可否にかかわる要素は、ほぼ決定されてしまうのである。


ここで再び先の「印象」を持ち出せば、事は明瞭であろう。すなわち、人間はまず先天的な要素によって、社会的に分断されるのである。「印象」を以ってコミュニケーションの可否を判断する要素は先天的に決定されており、そして、その「印象」を自己のコミュニケーションスキルとして使用するころには、コミュニケーション可能な範囲、人間の取捨選択は、既にして、ほぼ完了してしまっているということだ。


そして、ここでオタクが誕生する。
コミュニティから、コミュニケーショングループから排除された人間もまた、そのことをもって直ぐに死ぬわけではない。*6
生きている限り、なんらかの情報に接し続けることとなる。
そして、コミュニケーション活動外にて行われるそれは、視点が一つに限られることから、必然的に「特化した知識」を身につける素地となる。


こう考えると、先天的要素によるコミュニティ=コミュニケーション能力獲得からの阻害によってオタクが誕生することになり、オタク=コミュニケーション能力不足という図式が描けそうにもなる。


しかし、先の身体能力の後天的開発が可能だという指摘を加えてみるならば、その克服の可能性もまた当然あり、そして、コミュニケーションへのプレ判断(「印象」)という点でも、逆方向の経験則の蓄積によって排除されたもの、こぼれたものが再び拾われていく可能性もあるのである。*7


つまり、オタクのコミュニケーション能力のいかんは、本人の責任でもあるが、本人の責任でもない、ということである。


また、オタクだからといって、いくら、単眼的に追究することを旨とするオタク的志向の中に、本質的にコミュニケーションへの志向性が含まれていないことを指摘できるからといって、
現実問題として、人がある特定の領域に対してのみ志向を限定し続けることなどほぼ不可能である。
なぜならば、「人間とはそもそも社会的動物たる存在」だからである。
それが、分かりにくければ、こうも言おう。
この現代社会において生きるということを前提とするのであれば、生存にかかわる行動を排し切らない限り、コミュニケーションからの完全撤退など成し得ないのである。


さて、ここまでで言いたいこととは、オタクのコミュニケーション能力云々とは、オタク個人の資質のみによるものではないということである。
コミュニケーションというものが、本質的に複数の人間によってなされるのであれば、どう考えても、問題の所在を一つに限定することなどできないということである。


そしてそのコミュニケーション不全の問題が、オタクに限らず広く社会的に見られることだという例が、先の「オニババ」本への「コミュニケーション不足」発言によって私の敵となってしまった内田樹センセイの本の中であげられていた。
立ち読みした限りでは、確かこんな例だった。

<音楽好きの学生同士の会話=コミュニケーション>

A「音楽好き?」
B「うんすきー!どんなの聴いてるの?私、ミスチル。」
A「・・・私、エニグマ

ハイ、終〜了ーーーーーーーー!!!!!

そもそも趣味が多様化したといえば聞こえはいいが、つまりは、それぞれがまったく重なり合わないまでに分節化し、「相互にコミュニケーションがまったく取れない状況が常態化している」のが現代社会のコミュニケーションの現状だというわけだ。


「歩み寄りをする「どっから見ても人畜無害なオタク」などいないも同然」
という意見も、確かに実感・実例を伴ったものであり一理あるが、百理ない。*8
上の例をみてもわかるように、もはやオタクに限らず、今の情報化・細分化・分節化した社会からは、「相互に歩み寄る」ということが「構造的に失われている」のだ、といったほうが近いのかもしれない。


ここにいう「いない/いる」の問題は、再び、「そもそも「オタク」とは何か?」という問題へ返っていくものといえる。
オタクなる人格もまた経験獲得によって構築されたものだという先の指摘からみれば、まさに自分がオタクであることを根拠に歩み寄りを拒絶する≒その可能性を否定する層もいれば、オタクでありつつも歩み寄りを行う層も、例外としてではなく、いくらかの層として「必ずいる」はずなのである。
そうでなければ、あの89年のM事件をきっかけとした人権剥奪・人格否定運動からのこうまでの失地回復は考えられない。




オタクであろうと無かろうと、コミュニケーションが成立しくくなっているのが現代社会なのである。
その意味では、オタクとはその問題を端的に例示する存在であったがために、スケープゴートとして、「普通の人々」のための心理防壁として、ファイアウォールの薪として、生贄にされた存在なのかもしれない。

*1:誰にとって?私にとって。

*2:リンク先では、「そもそもオタが「モテ」とか「非モテ」とか言い出すのはおかしい。そんな言葉はオタ語ではない。」という指摘がなされているが、私はこれこそが確かにオタク用語であり、そこにズレがあるならば一般的な意味での「もてる/もてない」との差異であろうと考える。

*3:恋愛結婚は何をもたらしたか (ちくま新書)

*4:「モテ至上主義」と「恋愛至上主義」との差異にも触れられている。

*5:要点解説:コメント欄参照

*6:自殺の可能性は当然あるが。

*7:やっぱ少ないけどね。

*8:元ネタは『ボクはしたたか君』・・・らしい(実はよく知らない)