テロルの時代と大学の使命

サイレント・ヴォイス

以前、こんなことを書いた。

■「負け組」の「現実肯定」が、社会に致命的な一矢を報いる
未来への意思なき社会で、沈黙する弱者が弱者として生きることがそのまま強者へのテロとして致命傷を与えることになる、という怨念のこもった文章。
(「テンノーゲームのガイドライン」より)

繰り返しになるが、いわゆる「負け組」つまり、経済的弱者とまなざされる人々が一定以上の数に至り、そしてその「格差」が固定化されようとしている「希望格差社会」(ISBN:4480863605)においては、
それらの人々が「現状を肯定する」ことが、すなわち人口増加を前提とした経済成長を宿命付けられる資本主義社会を破壊に至らしめる、静かなる、断固たるテロリズムとなるだろう、ということだ。


ややもすれば私怨的な独り言に過ぎないこの文章には意外にもリンクが張られ、数百人の方がこれを閲覧した。


そして、そのリンクを張ったloveless zeroさんに、つい先日、意を同じくするような文章が紹介されていたことは、さらに意外なことであった。


それがこれだ。
マイクロ・テロリズムの時代

一種のテロのようなもの。そう、マイクロ・テロリズムとでも言えそうなもの。対象を選ばず、だれかを害すること。対象を選ばず、なにかを破壊したり、汚すこと。放火、軽微な盗み、公共の場所でのゴミ・汚物の投棄、投石による人家への破壊、抵抗力のない子供/老人/女性への虐待など。すでに始まっていることばかりである。
対象を選ばず、時間を選ばず、場所も選ばず、目標も不明確で、動機も不明確な形で実行されるマイクロ・テロリズムの効果は、人々の心に何層にもわたって、不安という漆黒の塗料を塗り付ける。漠然たる不安は、真っ黒な心の闇として結晶化し、やがて差別を生み、もう一つの憎しみを被害者の側にも育むだろう。

私のテロリズム概念が、自殺やひきこもり、少子化を射程においた消極的(?)間接的(?)な暴力による「見えない社会の空洞化」であったのに対して、katz氏の言う「マイクロ・テロリズム」は、より積極的、直接的な暴力による「目に見える社会の荒廃」をイメージしている。


このように社会に対する、社会の見通しに対するイメージがこうまで極端に悪化した状態で「共有されている」とは、思っていない点があった。
世界中の不幸を一身に背負ったような顔をしているわけではないが、少なくとも私のようなバカは少ないのだろう、というのが正直なところだった。

で、あるならば、
やはり、極端な負の状況下におかれたものがそれを打開するためには、それと同じくらいの強度で負のアクションを起こす事が必要となるのではないだろうか。
テロリズムという行動は、決して追い詰められた愚かな狂信的集団だけが行うものなのではなく、そもそも人間の社会の内部に、構造的に埋め込まれた、正当な「装置」なのではないのだろうか。


ここで、本来の私の主義から離れて、あえて「日本の伝統」を持ち出すならば、「えびす信仰」というものがある。
これは、各漁村において豊漁をもたらす神として祭られるえびす神にまつわる信仰である。そして、ここで重要なのは、ある漁村が不漁の時期に陥ったときに、他の豊漁である漁村に祭られたえびす神の神体を密かに「盗み取り」、それを祭ることで豊漁を祈願するという行為がある点である。
これはまさに、不漁という負の状況を、「盗み」というタブー=負の行為によって解消しようとする行動である。


それが宗教的、呪術的、象徴的行為に過ぎない、現実問題の解決にそのような負の行動が効力を持ちえるはずがない、という向きもまた、近日の日本で起きている現象を思い起こすと、どうであろうか。

週刊スパの2月8日号巻頭の「ニュース バカ一代」で勝谷誠彦氏が鋭い指摘をしていた。NHK海老沢勝二会長が辞任に追い込まれ、顧問に居直ろうとした事さえも国民は許さなかったことは記憶に新しいが、やはり一番の理由は受信料不払いという「行動」がNHKを追い込んだことだと思う。また年金掛け金の未納の増大が社会保険庁を解体に追い込みつつある。すなわち勝谷氏は、国民が大挙して受信料拒否や年金未払いといったおとなしい武器を使って権力者を追い込んだのだという。
天木直人・マスメディアの裏を読む: 2月2日05年第23号◆こんな国会審議でいいのだろうか◆日本を変革させる真の力を見つけよう


この事実、これらの負の行動が社会システムの不全・腐敗に対しての鉄槌となったという事実がここにある。

さらに続く文章では、

そして勝谷氏は次は税金不払いというもっと大きな武器を国民が一斉に使うようになると今の体制は立ち行かなくなると期待するのである。つまり国民の不払い運動こそ革命の予兆であるというのだ。(同上)

ここにある「もっと大きな武器」には、
まさに、「子供をつくらない」という「行動」、「働かない(働けない)」という「行動」、「消費しない・浪費しない」という「行動」、そして究極的には「生きることをしない」という「行動」……
これらの静かなる、断固たる「行動」=テロリズムが当てはまるのではないだろうか。


実学じゃない

ではこうまで、負の状況そして負の行動が浸透した社会において、閉塞した社会においてそれをどう開いていけばいいのだろうか。
そしてここにこそ、つい先日、首大(クビダイ=首都大学東京)を核として一部ブログ上で繰り広げられた「大学」論争、「教育」論争を持ち出す必要がある。
(参考:http://d.hatena.ne.jp/umeten/20050126#c 参考:R30 参考:内田樹


その批判の矢面に立たされたのが、文学部に象徴される人文系の学問である。
都立大の伝統を剥ぎ取り、実学的な職業訓練校へと効率化を図ったのがクビダイであるが、そのものへの評価の如何はともかく、その実学重視の効率化という方向性へは、効率化を疑問視する意見への無視という形で、広く支持が表されていた。

「そのような実学主義こそアジア的伝統なのだ」という「意見」まであった。

それはともかくも、
経済活動において重要な技能を重点的に叩き込む場であってこそ大学の存在価値がある。それ以外の非経済的な知を追求する学問などは効率化=切り捨てられて当然だ。などの意見が多く語られる状況の背景には、当然のことながらすでに長長期にわたる経済不況がある。
職をもつ身からは「社会人の常識」として、職のない身からは「大学への怨嗟」として、その非効率の砦たる人文学は十字砲火を受けている。

しかし、先の「テロリズム」の背景を見たときには、そこに現行の経済システム・社会システムそのものへの疑問・不満・苛立ちが見えている。
さらに言えば現在の経済的効率の追求こそが、それらの問題、「少子化」「フリーター」「失業者」を生んでいるという事実がそこにある。

にもかかわらず、誰しもが「負け組」という強迫観念に背中をつつかれ、「ゆとり」のない競争を自明視しなければならないというその状況を、意図的に気づかないようにしている。目を閉じ、口をつむぎ、耳をふさいで、同遇の他人の存在を障害としか見ずにバスに乗ろうと小突きあっている。


自分にとって無駄なものは、存在すること自体が悪だとするような意識がそこには生まれている。


これが「個人主義」として世に非難されているものだというと、ウソになる。
保守的な層は「行き過ぎた個人主義」を「伝統」の観点から批判する一方で、「経済」の観点からは「自己責任=個人主義の徹底追求」を叫んでいるのだ。
こうまで狂ったダブルスタンダードが、まっとうに意識もされないで垂れ流しになっているのだ。

金銭経済=効率だけを金科玉条にする社会とは、そこに人間がいないも同然ではないのか。システムの中で沈黙することしかできず、システムを俯瞰すること自体が出来なくなるのではないのか。


そのシステムを俯瞰する力を得る場こそが人文学ではなかったのか。


もちろん、人文学にも不備がある。欠陥がある。
「私は頭が固いから」といって旧態依然の教員が開き直り居直ることがまかり通っているとなどという腐りきった部分、「歴史」というものへの相対的まなざしを本質とする史学部が自らの「伝統」を呆れるほど自明視し固執するという、愚かな上にも愚かな部分は山ほどある。

だがしかし、
しかし、
資本主義でも社会主義でも日本主義でもない境地を開くためにも、非実学たる人文系の思考に基づく構想力をこそ、練り上げていく必要が、今こそ、その必要がある。


そうでなければ今の若者は老人に食いつぶされるだけだ。





さらに補足すれば、ここにあるように、この「大学」の問題は、日本における「教育」全体の問題として根本的に総括しなおさなければならないはずのものである。

例えばアメリカに比べて、どんな人間を輩出していくかと言うビジョンにおいて日本はプラグマティズムが欠けてる印象が強い。(中略)学校の勉強では英語が話せるようにならない(特に根拠のない定説のようにも思うけど)ことなども、なぜ改善しようとしないのか理解できない。ゆとり教育というのも即物的になにをどうしたいのかよくわからない。また、政治と絡まってへんなイデオロギーの捌け口になりやすいのは特に日本に顕著なことでもないのだろうか?荒川区のうんぬんとジェンダーフリー(教育)バッシングは関係していると思うし、また大学改革ばかりがなんでエコノミクスに突出してプラグマティックになるのか意味がわからん。どんな改革もトップダウンが最終的にある訳だが、トップダウンとして降りてくる施策にボトムアップからのプラグマティックな裏づけがない、あるいはずれてるように思えるのはなぜなのか。トップが浪花節イデオロギー的な思い込みから変な介入をしてるんじゃないのみたいな印象をもつのだけど。あーなんか日本は一味違うなあ。
[雑感]教育についての補足としての印象批判 或いはぷらぐまちっくは魔法の呪文