異常な人間のまっとうな動機

奈良女児誘拐殺害事件・初公判のニュースが夕刊に載っていた。

「その異常さ残虐さはどこから生まれたのか。」
  朝日新聞 夕刊 13面 女児誘拐殺害・初公判

と、「まっとうな人間」「普通の人間」がこう言う。
だが、その「異常さ」とは何だ?
だが、その「残虐さ」とは何だ?

「いかなる刑をもってしても償いきれるものではない」
  朝日新聞 夕刊 13面

と、これまた「まっとうな人間」が言う。
じゃあ、逮捕・起訴すら無駄な行為であるなら、今そこで行われているのは単なる茶番なのか。
では、何のための茶番なのか?

裁判を通じて犯行に至る経緯・動機がわかりやすく解明されることが、被害者感情の尊重に結びつく。
  朝日新聞 夕刊 12面

と、識者が言う。
だが、その「わかりすい動機」とは何だ?単純明快な因果関係で導き出される「原因」とは何なのだ?
確かに被害者遺族の感情については、十二分なケアを必要とするだろう。
だが、それに最も効果的なものは「時間」でしかない。どんなにわかりやすい「動機」「原因」が解明されたところで、死者は蘇らない。むしろ、「わかりやすすぎた」となれば、「そんな下らないことで…」と、再び感情が激化することもあろう。


頭の悪い評論家がこう言った――「犯人は、「フィギュア萌え族」である!」
ならば今、その評論家がなすべきは、ただちに犯罪幇助集団として、おもちゃメーカーを訴えることである。アニメショップという「イカガワシイ」企業に対する敵対的買収、そして整理解散である。


そしてまた、当の弁護団の方針も重大な問題をはらんでいる。

弁護側はこの日、小林被告の犯行について、ポルノアニメの影響ほか、幼い頃に母親と死別したことや、左目が不自由なことが人格形成に影響を与えていると指摘。
  朝日新聞 夕刊 1面

これではまるで、アニメが犯罪行為の源泉であるかのような論調である。そして、そこに「原因」を見出すことで「責任」を軽減しようとするような、つまりは、「アニメこそが性犯罪の源泉であり、被告はその悪影響を受けたに過ぎない」と言わんとするような意図が透けて見える。
もちろん、その可能性はなきしもあらずとも言えなくもない。だが、なぜ一犯罪者の動機が、表現の自由、メディア規制の一端に触れてしまうのか。「アニメ」の影響、「マンガ」の影響。そして「ゲーム脳」。そして「フィギュア萌え族」。
「貧病争」に、なにがなんでも「アニメ」「マンガ」を付け加えたいのか。


すべての犯罪に対してそれほどまでに「わかりやすい答」を求めようとするその姿勢は、どこか「正義」を希求する愚かさに重なって見える。


この社会における、「まっとうな領域」そして「異常な領域」。それを、「常識的な区分」として、「自明の区別」として、「自然的な差別」として、確立させようとする、この「効率化優先社会」。
スイッチひとつで有罪か無罪かを決めたがるこのコンビニエンス社会。


「今回のこの犯人には、アニメという悪いスイッチが見つかりました!!」
「わ〜、じゃあ死刑でいいよね!?」
「今回のこの犯人には、在日外国人という悪いスイッチが見つかりました!!」
「わ〜、じゃあ死刑でいいよね!?」


いかにして自分が「まっとう」であるのか、なにをして自分を「普通」足らしめているのかについて、「この事件の周囲にいる人間」がこそ、それを自覚し、問い直し、答えを導き出す必要があるのではないか?
この事件で直接の被害を受けず、最良のエンターテイメントとして消費した人間にこそ、この「問い」が課されているのではないのか?
「まっとう」である「普通」であるという自分が、社会が、いかにして成り立っているのかという「問い」の「自覚」を。


「効率化」からこぼれた人間が這い上がれないという、この事実を。
「効率化」からこぼれた人間を皆が皆蹴落とそうとしてきたという、この事実を。




わかりやすい「原因=動機」や、わかりやすい「結果=量刑」など、どうでもいいのだ。
そんなものはエンターテイメントの一端でしかない!
問題は、「問い」にある。
この「問い」が、「問われないこと」にこそある!!










フィギュア萌え族」こそが少子化を救う、という話もあるのだが、それはまた別の機会に。*1


にしても、ちょっと回ってみても、「小林ムカツク死刑死刑」のオンパレード。
もうね、アホかと馬鹿かと。
そんなことで問題が二度と起こらないように解決するのかと。

*1:うーん、「こそ」ってのは言い過ぎか